ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

「愛する」って。(@*@;)

 

 

自己愛について書いたので、

その流れで書き留めようと思う。

 

ただいまという当方別ブログに以前書いたが、

「愛」という言葉が日本で闊歩し始めたのは、

明治以降なのだそうで。

 

 

それまでの日本人にとって「愛」「愛する」とは、

人形を愛する、骨董を愛する”など、

主に、物への執着心を表わす言葉だったという。


(造形として  という字を見ると

偏った心を顕わしている気がしなくもない。)

 

夫を愛する、子供を愛する、恋人を愛する、という言葉は、

家族や親身に“なってしまう人”への執着心で、

生物としてある程度必要だから、

耳障りはない気もする。

 

だが、嫌いな人を愛するとか、

キリスト教聖書の言葉で、隣人を愛せよってな言葉から、

想像してしまうのは、ええ?隣のおっちゃんを愛するのか?

しかも強制かぃ、ってな違和感があるのは、私だけだろうか。

 

(まあ文字通り取り過ぎですが。

それでも「愛」を目指して人間性の完成を促すのが

キリスト教的教義だよな…?!

だから、現実的には困難なんだよね、キリスト教的教義は・・・。)

 

 

仮に、「嫌いな人を愛する」ことが可能になると、

今度はおそらくヒロイズムが発生するから、

更に面倒な状態になる。私のような凡人には到底無理だろうぅぅ。

 

また、「ペットを愛する」ことは違和感のない響きだが、

日々、皆が食す肉を提供してくれる牛豚鶏卵魚野菜…諸々、

命を与えくれて、食べている生物に

「牛を愛する」やら「玉ねぎを愛する」感覚を

ペット同様に持てるなら、食べられないのじゃないかな?

 

「牛“肉を愛する、鶏肉を愛する」ならば、そうなんだぁ〜、と思う。

でもそれって、かなり肉食が好きな人なわけで。

味覚に頓着する自己愛の極みという気もする。

 

 

「愛する」という言葉を検証すると、

まだまだ矛盾が出て来る気がする。

真理を説く宗教教義に矛盾があるのは、

宗教教義が虚偽ということになる。

 

 

 

 

 

子供の頃から、「愛する」という言葉に、

数多の疑問があって、それは今も変わらない。

だから、そんな胡散臭い言葉を使いたくないなぁ…。

 

凡庸に生きる一般庶民の私にとって「愛」なんて

いう言葉で、マスゴミやら何やらかんやら宗教的道徳倫理で、

やたら鼓舞されても、

仰々しいなあ…というのが本音。

 

 

 

思うに、たぶん幕末の切支丹大名の残党が、

倒幕を機に明治からの教育文学芸術論壇で、

国民洗脳(混乱)支配に「愛」という言葉をご多用なさった気がする。

現代ではマスゴミなどで日々、

便利に乱用している、と私は理解している。

 

 

したがって、キリスト教的崇高で有難げな、、、

ヒロイズム、英雄願望を満たすような、、、、

物々しいピラミット型社会を発生させてしまうような、、、

循環(めぐり)を破壊するような、、、、、、

「愛」という言葉を多用する正論者を私は信用しづらい。

そんなに、“力”まないと出てこない、仰々しい

崇高な精神活動は、私にはできそうもない。

 

 

どうも、お互い様という感覚くらいまでしか、

湧き上がってこないのだナ。

声高に唱えるものではない

「お互い様」という感覚。それが、

「循環」じゃぁなかろうか、と。

この三次元の摂理。

気楽でいいような気がする。

所詮、動物だもの。。。

 

 

英雄願望・正義感を満々に持っているなぁと感じる人って、

現実生活では、鬱陶しくなるのは生理的に、

当然のことだと思うんだけど…。

 

ねずミぃー映画、ハリ鬱ッド映画、

マスゴミが流布して来た日本の勧善懲悪のインチキ時代劇や

昨今の韓国映画とか、

その最たる思考汚染脳だなぁ、と思う。

 

ピラミット型価値観で

生き抜いて来た選民意識の油田白人種貴族さんたち。

その思想は

エキサイティングな自己愛ドラマ”を作りたがりぃ、

なんだなぁ、きっと。

 

 

この三次元では、

あなたもわたしも同じように大変よね、って感覚で

充分じゃないか、と。

 

その昔、高圧的な上から目線の暇な欧州貴族の作り上げた、

奴隷を利用支配する社会の価値観”の愛という幻想の、押し売りは、

日本人、いやいや世界中のふつうの人々には、

気付けないようにされているだけで、

本音、本心、

実際のところ、奇妙な印象に映っているはず、では

ないのかなぁ…と。

 

(いきなり飛躍するが、“何とかのために”みたいな洗脳で、

自己愛が作り上げる英雄願望の果てに

例えば…システム販売とか保険とか営業売上げ一位とかで、

大会で賞賛されているのって自己愛な訳で、不気味じゃないかな。

例えば…芸能メディアで年がら年中、自分の姿を写真新聞印刷されて、

ゴミになって踏んづけられる状態に、

本人が心を痛めないのも、自己愛の病理で狂っている気がする。

自尊心がカネに翻弄されている象徴で病だ、と思う。

例えば…有名大学出身者がたくさん輩出されていても、

世の中悪くなるばかり。

頭のいい人間は何のために頭がいいのか???自己愛でしょ。

例えば…貧しい国の子供を写真に収めて、慈善を訴える広告を

見ると、カメラマン自身の家族だったら、

哀し過ぎて決してそんなことしないでしょ。

貧しい生活者を単なるイメージとして処理している。

それは、他者の自尊心を蔑ろにした人権無視でしょ。

広告伝達の意味を明らかに真逆で、勘違いしている。

欧州支配層がカネを収奪する為の、

偽善事業の一環だと、なぜ気付かないのかなぁ、と思う。)

 

 

 

 

自己”と愛”がくっついて、

「自己愛」という言葉に違和感が無いのは

なるほど、と…。