自然という言葉を繰り言のように当方は使うけれども。
自然という言葉がいつから発生し、使われるようになったのか?を
知らない。
仏教用語だとは思うが、それ以上は分からない。
自然という言葉は「じ」をシと読み、
然という「しかり」という訳語がある。
“自らのまま”・“あるがままに”と言い換えられるか。
現代日本語の成り立ちについて注視することは、
主に明治期、英語を翻訳するために熟語を造語したことだ。
その造語した由来を私たちはまず学ぶ事が無い。いや、学べない。
言語の成立とその波及は、謎めいている。
時代のプロパガンダでもあっただろうなぁ。
目安として
訓読みは、音と字の形と意味を網羅して、
漢字は後から当てはめられただろう。
紀元前から徐々に約8世紀の仏教伝来で中国語圏。
現代で使用頻度の高い音読みの熟語の多くは
英独仏語の訳語として外来語で、明治以降1860年代以降の英語圏。
といった視点も時に重要ではないかな、と思ったりする。
言語の概念が思考に大きく関与し、
言語の思想が人間の社会を形作る、その根源を思うと、
言語を曖昧に活用する事に時々、危うさを憶えることがある。
逆に、違和感なく使える熟語に関心したり。
日本語のおおもとはヤマト語であると思うが、
大陸半島(中国・朝鮮)の影響も、多大だと思う。
幾度にもわたって、その影響を受け
うまく懐柔あるいは凌駕されてきたのだろうか。
歴史の流れと言語の関係はどうなのかな、と思うこともあるが、
素人がそこまで分析するのは難しい。
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で。
まったく、関係ない事だが、
塩は何からできているのか?を
疑問に思う事は無いだろうか。
無意識だけれどもわずかな疑問が時折、
意識に上ってくることもあるだろう。
当方は長らく疑問だった。10年程前に
赤峰勝人氏という自然農を追求されている方の
「にんじんから宇宙へ」という書籍を読んだ時、
“塩”が何から組成されているか記されていて、
腑に落ちた覚えがある。
(地球の数億年前の植物の“化”石化だとか。
うろ覚えだが…。今一度、詳細を知りたいことのひとつ…。)
現代人は、あまりにも無意識層に無知・無頓着なのかもしれない。
「日常の意識と無意識」というテーマが当方のひとつの関心事だ。
物理的な事、精神的な事、分けるに分けられない狭間には、
疑問だらけだ。