ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

「お金の秘密」…安西正鷹著 からの感想           当方別ブログ転載予定記事

(H28.7.9)

 

 

 

5月半ばのこと。近所の道路を歩いていたら側道に植えられている
ツツジの剪定をしていた。
だがその様子が剪定とは言い難く、市職員か、土木下請業者かは分からないが、
チェーンソウで乱暴に凄まじい伐採をするのを目にした。
剪定について何の知識も持っていないような、
まるでチェーンソウの扱いだけを面白がっているが如くの若手作業者。

それを見て、私は胸がぎゅぅっと痛くなった。
ツツジも生きているんだよ…と。(涙)

昨今、自治体が行なう街路樹、草木に対しての
乱暴な伐採作業の様子があちこちで見られる。
余分な想像であるけれども、多くの人間と同じくその作業者も、
自分の所有する自動車やバイクは、きっと舐めるように大切にしていることだろう。

命を繋ぐ、空気を与えてくれる植物、目を、心を和ませてくれる植物には、
思いやりの欠片も無い暴力的な関わり方。
カネのかかった物質、虚栄心を満たす道具には愛を注ぐ。
何という物質礼賛社会なのだろうか。

逆さまの価値観。
本末転倒にもほどがある異常社会。


些細なことだったが、その様は記憶から消えない。
あの時、進言をするべきだったと未だ、後悔している。
ひとことおおい私としては。

これが現代日本の実状だ、と思う。何とも、切ないことだ。
幕末までの日本は欧州勢の人間がうらやむ美しい国土だったことに
改めて思いを馳せてしまう。

古来からの日本人の精神性だった
八百万神への畏怖心は一体どこへ消えてしまったのだろうか。
現代日本人の自然観は劣化の一途を辿っている。
なぜなのだろうか、と。

 

この地の変化に富んだ自然の豊かさや多様さを完全に忘却させんとする
現代教育やマスコミ政治経済のプロパガンダによるところが大きいであろうが、
闇の権力についてあれこれを調べ知るうちに、
535年関西隕石落下(K氏説)を機に、
半島から亡命中の半島系支配層(百済系)が天皇と自称した時。


その経緯を知る藤原氏奈良時代の暗躍で、八百万神をすり替え、
古事記日本書紀偽書)の啓蒙で、神人物崇拝=天皇という、
大衆にとっての誤謬が、その根にあるのではないかと、思い至る。

 

音読みと訓読みの違いは、大和語と大陸からの言語を示している。

コジキ・ニホンショキ・テンノウ・・

音読みである。

大和言葉は、やまとことば・やおよろずのかみ・・訓読みの違いを

分析し、感受感得することの重要さ。

 

 

また、魏志倭人伝として伝えられた大陸の客観的な資料も詳細に読めば、

洗脳目的の現代日本史教育下では理解し難い、

日本という国の史実・事実の変遷の参考にもなろう。

逝きし世の面影で編纂紹介されている幕末訪日欧州人らの書物、言説は

客観・観察となり、それと類似し同様の用を為している。

 

 

「自然への畏怖心」は、生物として無くてはならない感性だと思う。
「八百万神」は、古代日本に於いて概念ではなく天皇の専売特許でもなく、
実感として人々の生活に根付いていた精神性だったと思うのだ。

生態系・食物連鎖・「自然循環」を意識化し、かつ詩情がもらたされる
豊かな想像力へといざなう精神的象徴としての神々。
太陽や星、大気や風、雨や水に、火に、山に大地に、
植物、微生物、昆虫、動物、鉱物…
万物に命が宿ると感じる心、精霊信仰が人には、元来は具わっているはずなのだ。
倭人種は、自然環境や他生物、生活に、活かす知恵を顕著に持っていたと想像する。
ところが、現代では神社仏閣を筆頭に、いつのまにか宗教観や信仰心が
神話偶像や人物崇拝へとすり替わっているように思う。

支配者層の天皇家や藤原家らが行なう、
政治的な意図で度々、半島や大陸からの文化的影響や
多少の遺伝子の交雑があったにしても、
倭人種が祖先の大多数の一般大衆であり、
自然への畏怖心は少なくとも約150年前までは、
この地には脈々と流れていたと思う。

ところが、明治維新1868年頃を境に、欧州勢国際金融家が牽引した
産業革命と称する経済活動と大規模戦争を日本支配者層は安易に受入れ
それを契機に急速に、日本人の自然観は劣化し崩壊が始まった。
現代日本では「八百万神」は風前の灯だ。


毎度の仮説を持ち出すが、
朝鮮半島から北陸地方にこっそり亡命していた支配層一団が
535年の隕石落下を機に関西へ移住し、天孫降臨を唱え
この地に暮らす倭人を支配し始めた。
7世紀初頭、日本という名が呼称され始め、
645年大化改新では藤原氏が政治的主権を掌握した。
同時に、藤原氏は仏教を国教にせんと奨励した、それを
現代日本では肯定的に捉えさせるよう歴史教育がなされている。
更には、古事記日本書紀を成立させた背景には、口伝を
改竄したであろう分析も多々ある。


今回、「お金の秘密」で初めて知ったのは、まだ読んでいないのだが、
斎部広成「古語拾残」という著書の内容、中臣氏批判だった。
“中臣氏の勃興と軌を一にして神道は没落した”という点は、正に
神道=八百万神を敬ってきた倭人種の自然観が歪曲され始めた根、
発端と捉えることができるだろう。

話は逸れるが「お金の秘密」の中で私が信憑性に欠けると感じる内容は、
藤原鎌足ユダヤ人のレビ族、藤原不比等ユダヤ人シメオン族…
松重揚江と中原和人という二人の在野の歴史家が唱えた仮説や
関祐二氏のそれを裏付ける云々…”
この概念的な説明は、いかにも訝しい。

日ユ同祖論を提唱し始めた一人が戦前に執筆した佐伯好郎という人物だ。
その説については、晩年その同祖論を唱えた理由を
ユダヤ資本を導入するための功利的な企画」と
Wikipediaに記載されていた。
が、その理由にも目逸らし・藤原氏影響下の意図(藤原氏からの影響を隠蔽)が
込められていると憶測してしまう。


あるいは、失われた十支族だか十二か十三支族という説が
天皇家らのルーツと関係があるという話も、535年隕石落下説を加味すれば、
当然ながら書籍からの説は信憑性を感じない。
しかも(素人くさい理由だが)、十だ十三だ、と数字がコロコロ変わること自体、
単なる噂話のようでバカらしいと呆れるし、今流布されているのは
偽支族の話であり、功績どころか、過去の社会より更に、

人間や生物、地球環境を劣化させている支族らに、何の有難味があろうか。

 

王族・貴族や天皇家やら血脈血族血縁にやたら拘る選民階級の思考、
支配者層らはその家系が血塗られたものであることは棚に上げ、
“文明を生み民衆を導いてきた誉れ”とする一般的な歴史認識
ホマレではなくホラではないか?!と私は思ってしまう。


まあ、一般人のこちらが雲の上の歴史や人間を
批判したところで仕方が無いのだけれども。(苦笑)

家系を重視する彼らが血脈血族血縁に拘るのは、
常識的な目線で言えば、単純に、巨万の富を延々と掌握し続け、
できれば未来永劫、そして、あわよくば更に大きくしたいからであろう。
その大きくしたい支配者層同士の利害がぶつかる時、
大衆を使って水際で、大規模戦争が必要なだけだ、と言える。
彼らにとっては戦争を実行すれば、新たな利益が発生し、
更なる富を手にするチャンスのゲームなのだから。

支配者層らの婚姻も、財産保守や拡大のために、金持ちは金持ちと
結婚しないと財産が目減りするから、やたらに家系が重要な訳で。
大衆の犠牲を払ったその上に、巨万の富を築き守り続ける家系に
美しい血が流れているとは到底思えない…。

こんなふうに思う私は、ひねくれているだろうか。
それでも昔のこの国の人たちが口にしたことは、やはり正しいと思う。
「氏より育ち」なのである。

一般大衆としての私たちが自覚することは、

権威権力への欲望や羨望を捨てることだろう。