ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

不安を選ぶ、という話のつづき

つづきというか、補足。

 

ついでに理屈を書くと、方向性を持って生きると目的意識や念が強くなるから、
今、流行言葉のいわゆる、引き寄せの法則というものが起きるだろう。
更に言えば、意識の世界で単位が変更されるというか(mmからcmそしてm…)、
例えば、些細なこともひとつひとつ感謝することを心がけるエネルギーが、
やがて塊になって、もっと大きな感謝や感動になる塊に出会うという感覚だろうか。
景色が段々、ダイナミックに変わっていくというか。

 

こんなふうに意識が変化するときは、塊になって大きな感謝や感動に…と

綴ったけれども、意識そのものは微細になって、

気付きは逆に、細やかになっていくように思う。

波動が高いという言葉を耳にするが、その状態は

意識が繊細になり密度が高くなる、

質が上がる感じ、と言えばいいだろうか…。

 

 

大きな循環の始まりも、小さな今できることから、気付いたことから、
ひとつずつ、身近なことから、お互い様の気持ち…から、と思うのだ。

・・・・・・・・

別段、大目標でなくていいのである。

 

と、書いたものの究極的な大々目標も少し頭の片隅にあると、

バランスが取れるのだろうな、と思う。

生物は利己には違いない。現代人はもちろん私も、

そんな大々目標に対し逆走しているのだが…。それでも、

少々クサイし宗教チックであるが、

「地球・自然への感謝や恩返し」「皆が喜ぶこと・生物が喜ぶこと」

「世のため人のため」「真実の平和」とか、漠然とでいい、

誰の中にも眠っている大きな意識、宇宙意識みたいなもの…、

無私の願いをちょこっとだけ(ほんの少しで充分)意識化して、

持ち続けると、心の軌道修正をしやすいように思う。

例えば、 己の中にある陰の部分、卑しさ浅ましさを

無私の願いに照らし合わせるようになるから、

客観的に観る事ができるようになる。

それは内的な循環の始まり。

 

昨今、スピリチュアルなどで流行の「(自分の)願望を叶える・成功者になる」

とかの風潮において、心の努力が偽善的になっている状態、

その執着からも解き放たれ、気楽にもなろう。

汚染脳用の成功論に翻弄されることも無くなるだろう、と思う。

 

究極的大目標を心に置くと正邪の見極める眼力、

己の中に真実が観えてくるのではないだろうか、と。

それが私の伝えたい「脱汚染脳」。

 

そして他者に悲喜こもごもの心模様を見い出した時、

客観的に己の陰の部分をも見ているから、

責めたり咎めたりする心が治まっていく気もする。

邪の現象を理性的に通り抜けられる。

 

(咎め心は自分の潜在意識に制限が増えてしまうから

精神が不自由になる・が、当方やってしまっているなぁ…。

大仰なことを綴っているが、自分のこととなると、反省。)

 

 

 「日常の小さな心がけや姿勢と究極的な大目標」と言いつつ、結局は

意識の「あそび」がこの世の顕われであることなのだ…と。

(生物はみな気まぐれ、気ままさが調和を生み出しているのが

自然の本質だ、と当方は考えている。)

 それはともかく。。。

 

 

年配者が「誰か、何かのお役に立ちたい」とか、

「孫が可愛くて」という言葉を聞くと、

苦労を乗り越え、我執に気付き、それを自身で許し、

楽しくあろう、と生きてこられたから、

こうした思いが湧き上がるのだろう。

この気持ちこそ、心のご褒美だなぁ、と感じる。

 

体験あってこそ。

便利で快適、肉体的苦労を伴わない現代社会。

 命、心、知恵、気力、肉体をしっかり使わないと

実感、本物の感動や感謝、人情や献身も始まらない。

それ以前の、茫洋とした意識、虚の世界で

多くの人間がさまよい、もがき、苦しんでいる昨今。

 

TVや映画、ケイタイやら…、メディアの中の感動は

生(なま)の感動・体験ではないことを自覚した方がよさそうだ。

 

不安を選ぶというのは、実体を体験することでもある。