ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

『うつくしく、やさしく、おろかなり ……              私の惚れた「江戸」杉浦日向子』

2015/10/07 の当方他ブログより転載

『うつくしく、やさしく、おろかなり ……私の惚れた「江戸」杉浦日向子ちくま文庫

杉浦日向子

***********************

江戸の色(47〜49頁より抜粋)

江戸で『色』というと、色彩以外を指すことが多い。
洒落本、滑稽本などの、大衆小説では、情人を『色』と呼ぶ。
好色、色欲、色事、色気、色町、すべて、男女の関係に通じる。
色、恋、愛。
この中で、愛が最も尊い気がするのは、明治以降、神仏の慈悲心を
「愛」と訳してから。江戸のころは、愛とは、「物」に対する執着を云い、
「壷を愛する」「人形を愛する」など、所有者側の物への、一方的な
束縛を示していた。単なる、強引強欲だ。
 恋には、純真なイメージがあるが、これも青春の流行歌が全国的に普及してから。
江戸では、「恋の闇」と云い、盲目的に想いを遂げたくて突進すること。
八百屋お七が恋の見本だ。恋は、思春期の麻疹のようなもので、
動物のサカリと同様の、生殖衝動だ。
残る、色。今では、恋愛よりも格下の、遊びに近い分野に入れられて、
昼の話題ではないとされている。
が、江戸では、前二者よりも上級だった。愛や恋は力ずくや勢いで獲得できるが、
色には駆け引きが必要だ。巧妙な心理戦であり、一筋縄ではいかない。
 ランク付すれば、愛は、他人に横取りされるぐらいなら、壊してしまうタイプで、
男女間に置き換えれば、最低。恋は、発展途上。生殖が完了すると
急速に冷めてしまうので要注意。
色は、人情の機微を知ってこそ楽しめる、卒業のない生涯学習といえる。
「色はその日の出来心」。色にはマニュアルは存在しない。

臨機応変、不特定多数、互いに充実した時を過ごすためには、

目の前の相手を敬い、赦す、心のゆとりがなくてはならない。
色には、愛の束縛願望も、恋の生殖達成もない。

愛や恋は、会えない時にも相手を常に想っているが、
色は会えない時は電源をオフにして、とりあえず自分の時間を優先する。
二十四時間、相手とケータイで繋がっていなくては不安なうちは、

とうてい無理な課題。
「色っぽい」は、江戸では最高の誉め言葉だ。「オイロケ」だと

フェロモンむんむんの軽薄な感じだが、本来の「色気」には、

容貌だけではない、言動などの内面的な魅力が不可欠だからだ。
色気のない人生は、モノクロの世界だ。出会いと別れを重ねるにつれ、

若いころ、接写だった視野が、だんだん広角になり、

画素も増えて鮮明になり、隅々まで色や輪郭がはっきりしてくる。
いろいろ、難しいけれど、どうせなら色っぽく生きよう。
(「プリズム」2003年10月号・記事)

 

*********************************************************************************

 

ここから当方の感想と屁理屈を。^^

笑いを分析すると興ざめするのと同じく、
「色」の概念とかの、知ったかぶりを述べたら、
色気などまるでないのは承知の上…。(苦笑)

 

現代社会で「愛」という言葉を否定する者は、
ちょっとオツムがどうかしている、と思われるだろう。
が、頑固者の私は譲らない。

以前にも『逝きし世の面影』「第八章 性と裸体」で書いたのだが、
「愛」という言葉の概念が、長い間どうも私は気に入らなかった。
第八章の感想には「愛」より、日本人は「情」ではないか、と綴ったのだが、
つまりは「情け」と表現していた慈悲心が「愛」という言葉にすり替わった
現代人の蒙昧。

明治以降は日本人の宗教観を刷新させるべく、キリスト教思想の台頭を目指し、
「色」の概念は不貞の象徴のように、降格、抹消された。
代わりに、「愛」を文学、芸術、宗教、教育で高尚なものへとイメージを
作り替え、日々の精神活動を表現する言葉が、がらりと変えられたことを
杉浦氏の説明で納得する。

慈悲心としての意味でこの約150年間、「愛」がごく当たり前のように
キリスト教の宗教観から、一般の道徳観に至るまで、流布し続けている。
現代の「愛」に投影されるのは、「情」のようなお互い様ではなく、
一神教的な、絶対的な、崇高過ぎる、
ありもしない偶像・虚像が想定されている印象を受ける。
ヒロイズム、自己顕示欲の臭いが、私はする。

余談(好きな言葉であるが、日本には「詠み人知らず」という言葉がある。
それに引きかえ、欧州米の彼らは、偉人、著名、有名への執念を感じる。
あるいは大衆に、畏怖や敬意を「強要」しているようにも受け取れる…のは

私だけだろうか…。

ヒロイズム、英雄視が大好きなのは、日本人の私からすると、
どうも出しゃばり感、偽ユダの自意識過剰を感じてしまう。)

一方で「愛」という言葉は、
日本人の流行歌のみならず世界中の歌謡で、
恋愛の昇華されたものも、「愛」として表現されるが、
どう聞いても執着心、利己心をごまかし、
きれい事にしたのが歌詞や文学芸術その他諸々でないか、と。
その食い違いが、未だ私は気に入らないのだ。

日本人にもともとある「情」「慈悲」と
「愛」の違いを物心着いた頃から漠然とは感じていた。
「愛」という言葉がいつまでたってもどこかバタ臭く、
クッサイ感じ、違和感があったのは、
もろもろの理由が潜んでいたから、と思うのである。
日本人としてその違いをはっきりと認識し言語化している人もいるだろうか。

現代日本人が解釈している「愛」という言葉は、
一貫性に乏しい言葉だったのか、と。

歌詞を筆頭に芸術全般が、キリスト教的借り物の
「本来は情と言われていた慈悲心を訳した、輸入の言葉=愛(LOVE)」のせいで、
もともとあった日本の「情」、「色」、「愛」「恋」(所有欲、執着心、サカリ)が、
ごちゃごちゃになってしまい、曖昧さのせいで、
人間心理の言語化が誤りを起こし、
社会問題の根になっていると言えないだろうか。

日本人にとって「愛や恋」の稚拙な精神活動が、
やがて磨かれたその先にあるものが「色」だったのか、と。
人生経験の厚み、達観した心境を表現し、成熟した精神活動と言える。
江戸時代の「色」の概念を知ると、
主に文化芸術の「愛=LOVE」をテーマにしたものは、
明治以降、陳腐になったのかもしれない。

正直なところ、昨今のドラマ、欧米映画や小説、
現代日本も同様であるが、「愛=LOVE」を主題にしたものが
軽薄でストーリー性が弱く、イメージの世界は記号化され、
想像力を見いだせない。
一神教的な絶対感から導かれるヒロイズムに、
違和感や胡散臭さを感じる。説明的で感情の描写もワンパターンで安っぽく…。
まぁ分かりやすいと言えば分かりやすいが……、飽きる。
加えて、ほとんどのドラマ、映画や小説等(偽文化・プロパガンダ目的)、
もう10年位遮断していると、いっそう汚染脳用であることが判る。

「愛=LOVE」という現代人が持つ一貫性のない概念によって、
感情、思考が混乱し、明確化・言語化できず、個の意識の脆弱さの

弱点を突き依存心を利用し、
一神教絶対神の枠の中で、巧みに制御されるよう仕組まれている…、と

言えないだろうか。
(ややこしぃなぁ…笑)


元来、日本にあった、人にとって精神の自由に至る独特な思想
「色のような概念」を一世紀半の間、封印させていると言えないか。
「色」が社会認識として復活すれば、
輸入の「愛=LOVE」が単純で稚拙なことが見えてくるのかもしれない。
精神的な自由さが、社会に発生するとも考えられる。

単純さ軽薄さも時に必要であるが、それだけで精神活動は収まらない。
長い歴史の中で昔の日本人が育んだ微細な感性を
ユダキリ欧州人の影響で明治期に、卑近なものとして、
いとも簡単に切り捨ててしまった。

もし現代日本人全体が、鎖国の延長のようにして平和社会が続き、
成熟し「色」の概念も精鋭され現代に至ったなら、
西洋文明に対して、短絡的な印象、評価を持ったのではないか。

昨今、世界中の西洋礼賛の風潮がいっこうに止まないのは、
つまり、汚染脳、劣化脳が完了してしまった、ということだろう。
残念ながらマスゴミ、狂育、企(鬼)業の所産である。
古典文学にあまり触れられないような教育が為された明治以降だが、
「色」と「愛」の違いが感じ取れないと、
様々な日本の古典作品の本質も捉えられないだろう。私もそのひとり。
現代日本人が昔の作品を読めない、理解できないから、いっそう、
日本の歴史を軽んじてしまう負の連鎖は続いている。


杉浦氏の説明によると、「恋」は生物的な性衝動で、
「愛」は欲望で、慈悲心とは別物と。
「色」は精神活動として上質のものと伝える。
仏教から影響を受け、日本人なりに編み出し成熟していった「色」。

また、「色」というのは、西洋文明、キリスト教が語る
「愛=慈悲」と「愛=男女の恋愛」の
意味の倒錯、あるいは誤謬を整理してくれる要の言葉とも言えるだろう。

倭人からの自然種の流れを残し、自然と調和して暮らす知恵のあった日本人は、
的確に微妙な感情、情趣を表現することもできた民族だったと思うのである。
明治以降、政府の暴走で借り物の西洋文明の怒濤に飲み込まれ、
大切な叙情性を見失ってしまった私たち現代日本人。

彼らユダキリ(偽ユダ・かつユダキリ教洗脳甚だしい輩)が

人工種であろうことを見下したいのではないが、
感情が、実は「若い」のではないか、と思える。
その人工種系の人間にとって、幕末の日本に在った「色」は、
特に、チンプンカンプン、ワケわかんな〜ぃ!?
だったのじゃないか。

優生思想を是が非でも突き進めたい彼らが、
理解できない概念は抹消、あるいは低俗と
処理させ、無視してしまったのだろう。

優生であろうとする感覚が、
既に劣生な精神の発想じゃなかろうか?!と。
彼らの卑近さを露呈しちゃってるょ…。
トホホ。

 

ともかく当時、単純な精神から、複雑な精神活動を理解することは
困難が故、致し方無かったのだろう、と私は解釈している。

キリスト教の慈悲心を解釈した「愛」は、
やはり、日本では「人情」だ。
それで充分だと思う。

実際のところ、現代社会では「愛」の言葉がばらまかれた結果、
杉浦氏の言う「愛」=「強引強欲」が具現化しているではないか。

昨今、ピラミッド型社会の頂点(偽ユダ世界支配)が
更に高くなっていると感じられるのも、汚染脳の「愛」に潜むヒロイズムが、
マスゴミ等の影響で一般人もその加勢をし続けていると言える。


いかんせん、慈悲心=愛=LOVEと訳した時代の過ちが、
現代に絶大な悪影響を与えていると思ってしまう。
皮肉にも、五十音順の「あいうえお」は
「あい」が始まりだから、妙に受け入れやすい語感。
だが、五十音順の成立は漢字を使うようになってから。

詳しく知らないが、漢字が使われる前からの、
この地の言葉は今の日本人にとっても、
言霊の威力があるように私は思う。
言霊、音の力があるのは大和言葉ではないかな、と。

「アイ」とは大和言葉では、「かわいい」という意。
「かわいい」という言葉は対象に、幼さ弱さを見い出した時に使う。
上下関係が発生する言葉。

現代日本人が「愛」という時、今尚、
言霊には「かわいい」が含まれている気がする。

(冗談だが…、LOVEを逆にして
EVOLを読むと、「えばる、いばる」って読めなくもないのはナニ…?!?)


話は飛ぶが、マザーテレサ氏は「愛」(慈悲)の象徴のように
語られ続けている。だが、先日たまたま目にした記事で、
氏は、聖人として生きていたにも関わらず、
心の闇に常日頃、苦しんでいたという。

大したこともできない私に言及する資格はまったくないが…。
敢えて言うと、人間が聖人、善人、選民であろうとする時、
愚人、悪人、賤民を作る、増やす。

上の立場であろうとする程に、下の立場も発生、増大する。
マザーテレサがもし「人情」という感覚に気付いたなら、
少しは、気が晴れたかもしれない。

すべての存在は、善悪や上下ではなく、相対的に存在する…と。
お互い様の心、人情があれば、皆の心が中立で自由自在に生きられる。

「色」…。
愛ではない、より精神の自由に繋がる大切な言葉だった「色」。
概念を取り戻すこと、定位置に戻すことを
夢想する。