ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

信号待ちにて。

 

 

交差点でのこと。
おじいちゃん、おばあちゃん、娘さん、孫さん
揃って信号待ちをしていた。

猛暑の中、お孫さんは汗だくのようで、おばあちゃんが
孫の顔をぐりぐりという感じで何度も顔から首、Tシャツの襟もとの
汗を拭っていた。その拭ったタオルは
ご自分のものらしく自身の顔の汗もついでに拭いていた。

おじいちゃんと娘さん(孫のお母さん)は
各々の団扇で自分を仰いでいる。

おばあちゃんは孫の汗を拭き取り、自分も汗を拭いた後、
次は団扇でお孫さんを仰いでいる。

孫は有難うを言うでもなく悠然としている。


この光景を後ろから見ていた私は、不覚にも
泣きそうになってしまった。
ああ、「日本のおばあちゃんだ」と。
そこかしこ人の目構わず、孫のことを一番に気にかけ、
懸命に世話をする。自分のことはさて置き、
子供が少しでも居心地が良いように、面倒を見る。
それはごく自然な感じで、
本当の母性の姿を久しぶりに見た気がした。


昨今、「おしゃれ」とか、「見栄え」とか、「かっこ良さ」を
気にして、自分も子供も見栄えが最重要項のお母さんには
あの、無心のたっぷりとした愛情、慈しむ仕草はできまい。

それは平和ゆえの余裕なのだろうか…。
マスコミや学校教育の悪影響もあってのことだろう。如何せん、
現代の親たちは育てるのに最も肝心なことを喪失している気がする。


幕末までの日本の大人たちは、子供を深く慈しんでいたという。
その名残がある明治大正昭和初期までの「日本の母」のような
そのおばあちゃんの何気ない仕草に、胸を打たれた。


明治大正昭和初期。

明治以降、軍国政治の乱世で日本人皆が食うや食わず、
見てくれなどそっちのけで、「生きる」ことに
一生懸命だった時代。
土を鍬で耕し、モッコを担ぎ、リヤカーを引き、風呂敷を背負い、

大きな背負子で商い、若い母たちは子供をおぶっていた光景。


私の生きてきた時代にはもうセピア色になりかけた情景だけれども、

時に目にしたり、その時代の写真や映像、

あるいは祖父母たちの話には、命がけの生活があった。
日本人が命ある限り、真剣に生き延びようとした、

人々の熱い魂を感じる。

そこに「美」があり感動があった、と私は思う。


だが決して、軍国、戦争の乱世だから人間が真剣に生きたという意味ではない。
あくまでも、幕末までの日本人の「真心」や

「人の良さ・情深さ」「品性・気高さ」が、残されていたから、

「美」「熱き魂」が受け継がれたのだ。

 

残念ながらマスゴミで劣化した現代日本人にはもう、

この先の乱世に、真心、気高さ、美や熱き魂が湧き上がる事はないだろう。

見てくれ、見栄え、かっこ良さ、表層を気にして生きることの虚しさ。
損得勘定、虚栄心の種を日本人はいつから己の心に蒔き出したのだろうか。



偏見と言われることを承知で書くが、
西洋社会、白人社会の虚栄心、自己顕示欲(ヒロイズム)の根深さが、
現代社会の大きな問題の根本原因の一つであることを
指摘しておきたい。
そう感じている人が多少でも居れば偏見では無くなるだろうか。


国際金融家所有のマスコミ全般。
TV、TVのCM、新聞、雑誌…そこで伝えんとすることをよく観察するがいい。
常に、「見られること、見せること、好かれること、

得をすること、勝つこと、もてること、ちやほやされること」…

つまりは優越感を触発させ、卑しき心に傾くプロパガンダに溢れている。

日本人が、西洋礼賛によって命を「生きる」本質から乖離し、
「見せる」ため、虚栄と虚言の人生になっている人間が

増え続けていることに危機感を覚える。


いつか年老いて死ぬとき、己の生きるエネルギーは本音以外ない時になって、
初めて「自分は何てバカで軽薄だったんだ…」と思うなら、まだましか…。
いや、人生はよくできたもので見栄を張り続けるといづれ、
虚栄心を捨てなくてはならない出来事に遭遇するものか…。


有難うを子供がわざわざ言う必要のない、
太陽のように当たり前の愛情を注ぐことで、
子供が自然と育っていくのだろう、と思う。

信号待ちで、孫の顔を一生懸命拭く「温ったかいおばあちゃん」は
夏を涼やかにもしてくれる。
それが、日本の良さ美しさ「情深さ」ということは
忘れたくない…と思った次第。