ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

当たり前過ぎることで。

 

ふと、時々思うこと。


家があって屋根があって、雨露暑さ凌げる有難さ。
一日無事に暮らしお布団で寝られる幸せ。
温かいお風呂に入って清潔に暮らせること。
美味しいとか不味いとか言いながらも、
食べられる食べ物の有ることと、
食べられる条件、健康とか経済とか

畑から材料調達から作り手まで…、

揃っていて咀嚼、消化できること。

肉体を養えること。


空が美しいなあ、今日はどんな天気かな、とか
眼があって、感じられる喜び。

排泄を思う時に思うようにできること。

洗濯機に任せればあっという間に

綺麗?! になった気分になって、

お洗濯ものをお日様の光で干せる喜び。
手足が使えるから、お掃除できる。
地球に草や樹が繁っているから呼吸もできる。

 

随分前に、霊能者がどんなふうに霊能が
強くなっていったか…、という話を聞いた時、
病床に臥している頃、一杯のお水の美味しさに有難さが
込み上げ、思わずコップのお水に手を合わせ拝んだ、という話。

お水が飲める有難さか、と。
極限状態で、お水を美味しいと思える感動がある。
飲める有難さを感じる。

肉体あってこそ、この世界があってこそ、
存在してこその喜び。

日々、当たり前過ぎる、ひとつひとつを時々
思い出して…。

 

冬なら給湯器があって、お湯を遣わせて頂ける有難さ。
夏なら冷たい氷を簡単に手に入れられる有難さ。

 

身近な人がいることで自分を観ることができる有難さ、
対象があること、他者がいることで、関わりあえる有難さを。

 

時々、思い出す。
なかなか、無私にはなれない。

時に、些細なことで不満もてんこ盛り。
当たり前過ぎる有難さを忘れることもある。

当たり前の有難さに加えて、有難過ぎることを

この世界で挙げたらキリがない。

有難過ぎることも思い出して、この時代に生まれたことは有難きこと。

折角だから「至福の時」を体感しよう…と思う。

 

「有難い」と、殊更に思わなくてもよい、ってなことを

ずっと前に浄土真宗の小冊子に書かれてあったことも思い出す。

これまた、意味深い。

 人間以外の生物は有難がって生きているだろうか、と。

 


有難過ぎる「現代の生活」。

しかし、美しい水が飲める川は無くなった。

 

「文明の存在」その是非を問う時、
当たり前はどこまでなのだろうか…。