ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。脱出!」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

「 いなせ 」 から…思うこと

「逝きし世の面影」(渡辺京二著)を読み、江戸時代のことがもっと
知りたくなり杉浦日向子さん(故)の本を読み始め、
「いなせ」という言葉の由来が書かれてあった。
「粋でいなせな…」という言葉を時代劇などで
決まり文句として聞いたことはあるが、
昨今その言葉に当てはまる風情を感じることはない。

さて、どんな由来かと言えば…。
“いなせの「いな」は鯔(ぼら)の幼魚のことなんです。
鯔の幼魚が大川(隅田川下流)を上っていくときに、背びれを水面すれすれに出して
いくんですが、その姿がスマートでカッコいい。「いなせ」な衆とは、その鯔の
背びれのようにすっきりした丁髷を結っているところから来ているんです。
あと立ち姿がよい、というのも「いなせ」の条件。”
(『杉浦日向子の江戸塾』PHP文庫より)

簡単に言ってしまうと、江戸のかっこいい男性たち(火消し衆など)を

形容する言葉だ。
カッコ良さについて今更、薀蓄を書こうとは思わない。^^
マスゴミの十八番、食傷気味の話題だから。
かつ、丁髷を結っていないから、使うところもないが。


それよりこれを読んでふと想像してみると、
当時の川がいかに透明で美しかったかを思った。

現代日本の都市に流れる川にたとえ「いな」が泳いでいても、

何かを比喩したくなる輝くような「自然美」はない。

川の汚れのみならず、あらゆる自然が汚染され、

護岸や道路、公園、ダム、鉄塔など過剰なインフラ整備がなされ

生態系が津々浦々コンクリートや巨大建築物で破壊され尽くした。

企業が製造する物質のゴミゴミゴミだらけ…。

他の生物に冷酷で無機質。

目をそむけたくなる、悲しい現況だ。


幕末訪日欧州人によると、

江戸の町は巨大な美しい田園都市だったという。

地上の楽園、野鳥の楽園とも欧州人から呼ばれ憧れられてもいた。

自然は豊かで、美しい川辺を散策する人々は暮らしに
余裕もあったことが窺がえる。
どこの家でも植物を愛で育てていたというし、

家々の庭先にフクロウが棲んでいたり、

ニワトリの毛の手入れをしたり、

カササギが人の子守りをしてくれたという。

日本は、鳥に人が近づいても逃げない国だった、と。

 


植物や動物、すべての生物は生き生きしていたことだろう。
町のみならず、日本全体の雰囲気がとても良かった、と感じられる。

鯔の幼魚を「いな」と呼ぶのを初めて知ったのだが、
幼魚が水面すれすれで気持ちよさそうに群れをなして泳いでいる様に
丁髷を「いなの背中」に喩えた、ちょいと洒落た言い回し。
川の水の美しさ、魚たちの生命力から情緒は言葉へ映り(移り)、
情景に対しての比喩は江戸らしく、
また派生する言葉に奥行きを与えてもいる。

「いなせ」という言葉を誰が言い出したのか調べていない。
江戸の庶民も武家も差別感など全くなく友人関係は成立し、
サークルような様々な会(講)を楽しんでいたという。

あくまでも私の想像であるが例えば、
俳句や川柳などの会(講)で楽しい使い方がウケたかもしれない。
遊び心からだろう「いなせ」という言葉は、

世間に広がり、現代人さえも知っている言葉になっている。

 

 

ちなみに、「士農工商」という言葉は明治政府

皆が幸福だった良き時代の江戸社会を否定させ、

明治政府を肯定させるための教育プロパガンダとして

悪用したのである。「競争」という言葉も明治政府が作ったもの。

 

 

江戸と現代の精神の教養レベルが違い過ぎやしないか。

江戸社会の日本の識字率は約85%だったという。

当時、世界一だったそうだ。

しかし明治政府(ユダ資本提供による戦争三昧)の時代には、貧困が増え、

貧しい家庭の子どもたちは学問に触れる機会を奪われ、

識字率が下がった時代だった。

 

そして、戦後から現代人は識字率こそ高いものの、

その言葉の質は年々劣化の一途を辿っていると言える。

GHQによるあらゆる情報統制によるマスゴミ狂育プロパガンダによって、

言葉の浅さ、情緒の無さ、粗雑さ、合理化や効率化、損得勘定。

経済のために複雑さや分析力は研ぎ澄まされ情報は

大量になったが、偽情報ばかり。

 

自然の豊かさ、遊び心から生まれる精神活動は明らかに鈍化、

画一化、短絡化している。


昨今、若者の言葉で気になるのは微妙なひねたイントネーションや
短縮する言葉がTVなどでやらた取り上げもてはやし、流行させる。

老若男女、どこの地域でも、その語調を持った言葉を使うように
波及させている言葉が多々ある。
マスゴミが流した風潮に対してそれが「いまっぽい」…とか、
流行の波に乗っている、というマスゴミの絶大な影響力と、

マスゴミへの絶大なる大衆の肯定感によって、
その流行の雰囲気から外れていると、…何故だか疎外感が漂う。


英語が日本語に同化した単語はその傾向が強いだろうか。
「ギター」というと、語尾の音が上がるとエレキギター
語尾が下がるとクラシックギター、という違いを表したり、
前出と同じように「クラブ」という言葉を使う時、
踊るための店は語尾音が上がり、趣味や部活動の集団をクラブという時は
語尾音が下がる。そんな言葉の扱い方が気になる。

語調を調整して流行を漂わせ差別的になる慣習。
それは西洋礼賛的で、階級(差別)社会が当たり前の、

英語圏や英語教育の悪影響の一つと言えないだろうか。

(日本人はもともと野次馬根性やミーハーに象徴される

好奇心旺盛な特性がある。生物として自然種ゆえ。

もしかしたら江戸にもそんな語調を遊ぶ風潮はあったかもしれないので、

断定はできないが…差別感は漂ってはいなかったと想像する…。)



江戸時代のように、何かを比喩して言葉を楽しむのではなく、
語調で共有するノリが重視され、情趣はない。そして、
独特なその時代の「ノリ」をのせた言葉遣いではないと、
排他的差別的な空気さえ発生してしまう。



女子や男子という言葉も学校教育で使ってきたものを
昨今は成人の若者に「子」を付けてマスゴミ雑誌あたりから

言い出したのは、未成熟さや意図的な若者文化礼賛で年齢差を強調したいとか、

未婚者が増えているから…とか。色々あろうが、全般には肉体的苦労がない

現代人の精神幼児化現象を象徴しているのかもしれない。
また、TVや学校教育の普及で、
方言も弱まってきていることは以前から言われていた。
自然環境破壊によって心を伝える言葉が劣化し、
政治、狂育、体制側からの影響や風潮が優先される現代日本人の言葉。


自然が破壊され尽した社会では、
趣のある言葉や気の利いた言い回しは、もう生まれないだろう。
自然が、時間の流れの中で自ずと生み出す美しさや、
生物全体の心の触れ合いを大切にする社会があってこそ、
「文化」と呼ぶに相応しい言葉や芸、創作、が生み出されるのではないか。

発音に頼って漠然としたノリに支配され
言葉を詰め込んでも心は伝えられない。核心は伝わらない。
中身の浅い、共感の少ない会話。

そんな悪循環が現代の会話で起きている気がする。


自然から感じ取った言葉によって文化が育まれていた時代の
言葉は豊かである。
自然を破壊し続ける現代社会で使われる言葉は、

マスゴミ、企業、狂育が扇動しどんどん貧弱になっていく。

マスゴミと企業がセットになって環境破壊が進んでしまう。

一体、いつまでこんな劣化社会を人間は続けるつもりだろうか。


年々流行歌の歌詞の比喩表現がお粗末になっている。

思えば、江戸社会の残照があった明治大正の頃に生み出された

歌詞は、日本人の精神性がいかに上質だったかを思う。

現代で、欧米社会の歌手の真似事をすれば、一過的には、

歌唱力とか才能をもてはやすものの、言葉に魂や思想が

ないから即、飽きられる。

言葉の話から逸れるが、あのストリートダンスから

進化?いや明らかに劣化した、関節炎を起こしそうなアドレナリン処理用、

集団「奴隷ダンス」を学校教育に教科を取り入れると聞くが、

荒々し過ぎて私は非常に不愉快で正視できない。下品の極みだ。

 

日々、マスゴミと狂育が、

人間の精神生活の「時間」と「感性」を奪い、

本物の文化を破壊し続け、偽文化でガス抜きをさせているのだ。


幕末まで。

かつての日本では…
澄んだ空気や水、風にそよぐ木々の葉音、野鳥のさえずり、

川のせせらぎ…自然から伝えられる言葉にならない心が、

人間の直感や霊感を磨いてたことだろう。

 

まずはマスゴミを生活から追い出して、

改めて自然、生物、から学ぼうと思うこの頃である。