ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

疑問力

疑問を持つことはとても大切だ、とわたしは思う。
疑問があるからこそ、好奇心は尽きず
人生を謳歌する原動力になる。
そして真の自由になるのは、「疑問」力より
他はない、と思っている。


現代は真の「疑問」を持つことが、
「不満」であることに置き換えられてしまう、
偽教育である。

そして、うわずみの不満をちやほや利用するのが商業主義経済である。
真の疑問を持たせず、うわずみの不満を増やすことで貨幣経済
延いては、ん国際金融家、国家権力の君臨を許すのだ。

誰しも疑問が解け納得すれば、素直になれる。
それを重ねてこそ、真の自由、精神の自由が獲得されるのであろう。
その工程をさせないのが現況の精神教育である。
短絡した「素直さ」と真の「納得」を摩り替えられている。

昨今の社会では、精神論、倫理観、道徳観、教育観、宗教観
ほとんどは政治権力に都合の良い啓蒙を行っていることを
まず感じ取らねばなるまい。

不満は疑問の萌芽といえばよいだろうか。視点を変える発想に至らず、
思考停止で己の小我に固執し未熟な意識。それを彼らは利用する。

一方、疑問とは「なぜ、どうして」という言葉から、
様々な視点を自ら探り、発想を重ね、客観視が育まれ、
真実を見出そうとする。

人として全うな感性である。
創造力の源である。金銭が不要になる世界観とも言える。

 疑問は、人生の精神の自由を生み出す鍵のようなもの。
人間は「疑問」を通じ、葛藤し模索し解決する中で、
「納得」こそが、内的エネルギーを無限にし、
継続して精神的な原動力を生み出すのである。


更に、人生の日常に注意深く繊細なアンテナを張ることになり、
権力支配から身を守る思考も育つであろう。

まずは不満を疑問へ昇華するには、「中庸」思考が必要だ。


すぐ納得できなくとも、解が見つからずとも、
疑問を追求し続ける姿勢が、個の確立であり、
精神のバランスを保ち続けるのである。

揺れながらも支点を探すことである。

昨今の教育は惨憺たるものである。
疑問を持つことを不満・我儘 呼ばわりし否定し、
権威権力に迎合する教育なのである。

疑問を封印し、素直さを装った自己欺瞞が現代社会での
優等生である。

自己欺瞞とは権力に対してのイエスマンである。

自分を欺くこと、自分に嘘をつくことを奨励する労働環境である。

それに飼いならされたあかつきは、思考停止と不満放置。
そんな輩がサラリーマン生活を維持し、

自然破壊や人間破壊の一端を担って、「仕事だ労働だ」と、

がなり立て、不愉快な社会をさらに強固なものにしている。

現代の金銭労働で、

自然と生物が調和する努力のための仕事があるだろうか?
否である。

それを仕事とは言わない。我慢訓練と利己報酬体操だ。

我慢訓練は人間に更なる我儘さと不満をもたらす。



子供が人生をリタイヤしたくなるのも無理はない。
親は自然破壊、未来破壊の対価で子育てしているのだから。


どんなことがあっても、疑問を見失ってはならない。
疑問こそは個性を磨き、己のアイデンティティ
つまり自己一貫性容認を持ち得るのである。

真の自由への扉を探り当てるのは、

「疑問」を持ち続けることである。

ユダヤ教は疑問・問答を最も重要視している。
その理由を考えてほしい。
疑問を持つということ。