ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

マスコミ ニュースのプロパガンダ。__無送電線

 

(当方他ブログより転載)

 

 

千葉県が台風被害で停電が続いているという。

送電線の鉄塔が2基倒壊したのが、原因だと家人から聞いた。

 

日本人の多くは、あの送電線や鉄塔が好きではないだろう。

できれば、無くなって欲しいと思う人もいるだろう。

私もその一人だ。

電磁波の恐怖はもちろんのこと、美しい自然の中に、

アレがそびえ立つ風景が、心底私は嫌いである。

電気はいらないから、あんなもの建てるな!と

密かに思うが、今ここで使うPCのみならず、

あらゆる電気を使う生活を享受して、

それは支離滅裂、本末転倒な感情であることは承知であるが…。

 

***********

 

5Gをパワーアップさせるため、
悪質かつ強烈な電磁波を地球全体を覆うことができるかどうか?!
実用実験したくて仕方がない輩が、

その序章として、マスゴミプロパガンダに励んでいる停電事態か?


無送電線・・・宇宙発電・・・

 

https://www.sankei.com/life/news/150330/lif1503300022-n1.html


リンク先は産経新聞2015年の記事だ。


確か、売コク奴小泉元首相がこの情報を盛り上げていたのは、
それよりも数年前。

 

欧州貴族勢、国際金融家、元地球人元金星人月面駐留の奴らは
日本の国土を実験場として、毎度おなじみの喧伝を試みている模様。(呆)

 

 

電力発電は、小型化かつ自主制作を目指すこと以外、
全て偽ユダ欧州勢の富の収奪や人口削減が目的であると、
考えるのが妥当ではなかろうか、と。

 

 

 

お金がない哀愁。

 

 

 

お金がない哀愁。

 

それは人生の喜び。
たまらなく、楽しいのである。

 

痛くて、悲しくて、悔しくて、

自分はもう居なくていい。

死線をさまよう世界が、この現代。

 

惨めで寂しくて。


そんな感情を内包させる不思議な貧乏体験。

 

いつかそれを爆発させる予定が

自分にあるのかないのか。

 

それを成功という浅薄な優越感で制御されてきた。

 

たまらなく惨めで愛おしい。

 

 

 トモカク、

物質として存在することが、

宇宙的に、特別に、すごいことである、と。

 

 ワタシハオモイマス。

 

 

宇宙と地球。

あの世とこの世の逆説。

 

 

 

この世は〝偽楽〟の方向を自分で決めた瞬間から。

金銭・マネーに取り込まれる。

 

神仏に願うほどに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっとしたボヤキ。(電子 マネーや 5 G やらの…行方)

 

(当方別ブログより転載・追記)

 

 

 

そう言えば、最近マイク口チップの話題が少ない、と思った。

逆に、電子マネ--や電磁波 5 Gの話題をマスゴみが牽引し、

世間を賑わしている気がする。

電磁波を使った自動運転交通制御システムに 5 Gを導入しようと
行政は、マスゴ三を使って熱心に、「交通安全」を喧伝している。
その喧伝を盛り上げるのに、エ作として自動車の事故やら煽り運転
マス ゴミ報道が連日のように扱っている、、、、、

という見方を当方他ブログの前回記事で書いたのであるが。
今回も、いつもの単純な私の妄想シナリオである。。。

 

***********

 

日本の国民全体が、自動運転交通制御システムを望んでいる訳ではない。
余談だが、F 1レースを随分前に縮小し始めたのも、モーターファンを

淘汰するためであったか。交通制御システム導入案のために。

 

それはともかく、
企業や行政が得手勝手に開発し、国民を更にコントロ一ルする
一つの手段として、躍起になっているとしか思えない。

だが、得手勝手とも言えないだろう見方もある。
綺麗事の建前として、自動車大量生産をこれ以上続けることは、
資源枯渇やゴミ処理の限界に来ている。
大きな物質の生産量を抑制し、資源を確保するのに
検討されてきた事業という側面もあろう。
あるいは石油大量消費時代を終わらせ大気汚染問題のひとつの回答とも言える。

昨今、輸送の代替としてドロ一ン開発に注力していることも世間の知るところである。
が、そんな綺麗事の建前を並べ立てても、そもそも輸出入を前提とした
グロ--バル化が、19世紀から21世紀にかけての諸悪の権化である。

ゴミ処理問題や石油消費による大気汚染を促進させたのは、
つまり欧州貴族や国際金融家らである。
とっくの昔に、大衆からあるいは、まともな科学者は、
石油ではないエネルギーを使う方法を編み出していたにも
関わらず、それらを抹殺や暗殺で隠蔽し続けて来た偽ユダ集団の罪は
如何程であろうか。ごみ処理技術も同様だ。
今更である。

 

更に言えば、欧州貴族やイ工ズス会や国際金融家らが、世界中を植民地化し
元来の地球の理に適った民族生活を根こそぎ滅茶苦茶に破壊して、
骨の髄まで搾り取らんと行なってきた支配が、
どうでもいい〝未来テクノ口ジ----〟を

マスごみ C M 界隈を使って奨励させている訳である。

 

本当に、勘弁して欲しい。
元地球人から所望されている人 口 削 減が大目標の
頭の可笑しい人間達の優 生 学 思 想。


そうした存在を解体するのは、一般大衆私たち一人一人が、
己の日頃の無意識の思考や行動、潜在意識に刷り込まれた
嘘、それを定着させ続ける喧伝、とどのつまり

自 己 欺 瞞に気付くことと繋がっている、と私は思っている。


******************


さて、最近では国家官僚の中にはエ作 員のような公務員が多数に

紛れ込んでいるだろう。
この頃は自治体にもそうしたエ作員が、

相当に送り込まれているのではないか、と思えてならない。

その指令系統の元締めは、しつこく繰り返すが毎度お馴染み、
欧州貴族国際金融家+最近ではG AF Aも加わり、
バチ▼ンの実行部隊と囁かれているC| Aが、
各国の要人に脅迫や買収、そのメンバーの誓約もあって、
政治の舵を切らせているのだろう。
大衆のための政治など、この地球には今のところ
存在していない、と考えるのが妥当ではないか。

 

******************


で、話を戻しマイク口チツ プについて思うことである。

現在では世界中で急速に電子マネ--化が為されている。
中国の深圳では、現金が使えないほど電子マネー化されているそうだ。
日本は、電子マネ--の普及が遅れていると言われる。
個人的には、その方がいいと思っている。

かつ、仮想ッつー貨のB|t コインを対峙させ、

Eゲリスが、フ工ニックス通貨?の民意もどきを

反映させたような実験的な金融支配をNW◯の

金〝痔〟塔として、宣言なさって。ハイハイ。そうでしょう。

それをやりたかったんだね〜、ってな流れである。

 

自動運転交通制御システムで超高速瞬時大量情報電磁波の 5 Gを
導入させんとする真の理由に、マイク口チっプの導入も
想定されているのではないか。

第一段階 --- ス魔ホや阿i呆ンの道具が必需品。
       全体が電子マネー化で快適便利な消費生活。←広告で刷り

       込まれた欲望に盲目的な消費

第二段階 --- 5 G制御が成された生活空間。←意識、人体に悪質かつ

       強烈な電磁波で思考停止。
          水道事業を民営化し、

       水道水にフッ素化合物(←アルミ製造の産廃)を
       大量混入させ、松果体を破壊し、思考停止、直感力の鈍化。

第三段階 --- 大事故、大惨事を発生させ、ス魔ホや阿i呆ンの道具が利用ができず、

                       電子マネ--も利用できない故の大混乱を偽ユダ主導で演出。
      人体に直接、制御システムを埋め込む方がよいという論調、道義を

      マスごみが発生させる。

第四段階 --- はい!マイク口チップは義務ですよ〜。

       マイク口チツプの税金も負担してくださいね〜!
      (国家の仮面を被った上場していない、
       幽霊のような多国籍&無国籍企業(欧州貴族国際金融家所有)が、
       A|化を掌握し、大衆削減を自在化したい訳である。
       かの宗教の唯一神を信じる者だけが救われるが如く。ユダキリだな。
       良心がある程度はあるが、本質がわからない人間、

       疑問を持たない人間が必要。)


       人間の口ボット化の仕込み中だ。

 


〝電子マ ネ--・強烈電 磁 波5 G・マ イク ロチップ 〟は、

 三種の悪器じゃないかぃ?!

(露骨に、3つの悪器を推進するとバレるからかなァ?)

 

 携帯電話の経緯は、その前哨戦の道具じゃないかぃ?!

 

 

 


という訳で、多国籍&無国籍企業がこっそり主導権を握りつつのある昨今。

その媒介と牽引するのにG A F A があり、

F ブック(キ リ ス ト教布教ツール+C|A監視ツール)などで、
電子マ ネー化(奴らに都合のよい善人を監視するためでもある)を

更に推進している。
Gグルは、悪質かつ強烈な電磁波5Gの普及に、交通制御システムの

構築を担っていることだろう。
A損は、ひたすら消費生活で広告喧伝の欲望を活性化するのを牽引している。
y●T bは、大衆からの情報収集とファ イリング化、大衆の知恵の遺産化である。

ツイ言ったーやL⚫︎in・イ ン ス タなどなど、輩にとっての支配用アプリ。w
A pは、A |化においてのハー ド、ソフトの整備、開発。


全部、大衆の収益を電子マネ--化し、国もどき窓口から税金は、

G A F A 経由で、欧州貴族と国際金融家とバチ缶行き。

物質世界の進歩発展の追求とは、

頭の可笑しな優生思想を持った輩の世界観であり、
己の生命以外は、不要に至る。
輩も分裂し崩壊に向かう段階に入りつつある気がする。
元地球人らは優生思想を持った輩が、実は最も不要なのだと思う。


******************

 


輩の戦略で、日本人の好奇心旺盛さ、

皆並列であろうとする性質を悪用されている。
表面的な個性化を謳うが実質的には同じ方向へ

誘導されていることに気付かない日本人。

思うに、物質世界において保守的であることを否定するものこそが、

偽情報であり、

便利さ・快適さ・お得感&高級感、最新最強最大極上

ばかりを流布する情報にろくなものはない


優越感をくすぐる情報は人間同士の信頼関係を分断させる。
が、それが並列化を発生させている。

もともとあった日本人の慎重さが、現代において重要ではないか。
目新しい物や外部情報に疑問を持ち、飛びつかないことが、
現代日本人には求められる。

 

後先の時間に囚われず、地球のリズムを感じるよう、

今に、できるだけ己の深い感覚の心地よさを

五感で捉えられる、素朴な生活へ。

怖がらせるような内容の結論に、逆説的だが。

安心感を心がけるのがいい、と私は思っている。

盲信盲目の判断は、回避したい時期である。

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

暮らし方の違和感

 

 

実家は商売を営んでいた。

生まれてから小学二年まで、日本家屋と三階建物を繋げ迷路のような家で、

祖父母は三階に、日本家屋の2階に私たち家族は五人で暮らしていた。

小学三年の時に、父親が商売の都合ですぐ近くに小さいながらビルを

建て七人で引っ越した。十年前まで、社屋の四、五階を自宅として私も

暮らさせてもらっていた。

 

(幼い頃の私にとって迷路のような住居は、とても幸運であったと感じている。

 現代の人工物のみで画一的な間取りの住環境に、様々な疑問が湧く。

 

都心部の暮らしは便利である。

商業地区のど真ん中で、自転車でほとんど用件がなせる場所であった。

 

だが、いつの頃からか、私は住宅という形に疑問を持つようになった。

便利という有難味と対称的に、自然への渇望感は強くなり、

土が身近に無い、植物や動物との共存が難しい暮らしに、

様々な厄介さを感じながら生活していた。

 

 

ホームセンターなどで〝土を買って〟自宅のガーデニングをする。

建物の排水溝・配管を詰まらせないために苦悶もした。

ペットを飼っていた時も、糞尿を随時処分に気を付け

人間の暮らしの妨げにならないよう、色々工夫もした。

幸い、日光がよく当たる少し高い建物は、

乾燥しやすい状況もあったから、湿度の高い日本であるが、

カビや細菌については、さほど困ることはなかったけれども。

 

 

それでも、子供の頃、祖父が趣味で家庭菜園として郊外で

野菜を作り出し、夏の終わりにはたくさんの野菜が家に

持ち込まれた後、土にいた蟻が、いつの間にか家の中を

闊歩するようになり、果ては観葉植物の植木に巣を作り、

床や窓際には何年もの間、蟻が歩いていた。

あるいは、長い間放置した食品や物品から、蛾が孵化してしまった

こともあり、土が無い無機質な環境に、虫が発生することの

面倒さを感じてもいた。

 

現代日本人の多くが虫を嫌う。室内に様々な危険な化学薬品を

使って、虫を排除するのが当たり前になっている。

 

だが、多様な虫がいることで基本的な生態系が維持され、

私たちは食をはじめとし、あらゆる恩恵を得ることができている。

それを忘れるわけにはいかない。

 

 

つまり、虫が悪いのではない。

人間の暮らし方、住宅、都市、大地を扱う人間の有り様、

生態系を完全に無視した暮らし方、生き方が、

明らかに間違っている方向へ進んでいることを

人工物に囲まれた暮らしの中で、痛感していた。

 

 

私の理想的な住まいは、土間があって、

暖房と調理が随時できる囲炉裏あるいは竃があって、

台所は戸外と繋がり、残渣も適当に地面に散らせば、

そこへスズメたちがやってきて、蟻たちも食を得て、

適当に人間と食べ物を共有できて。

 

色々な虫が室内に入ってきても、そのうち飽きて外に出て行くだろう

隙間があって。きれいとか汚い、危険VS安全という瑣末な感情から

いちいち他生物に目くじらを立てなくても良い、

「まあいいか」と思える、大地、自然循環にお任せできる現実的な他力。

そうした意味での快適さがある暮らしを常々想像するようになった。

(私に於いては、現在は微妙な住宅の状況であるが、

 以前ほど人工物に囲まれてはいない暮らしで。△ 。w)

 

 

最近では、夏は高床式住居で冬は竪穴式住居に暮らしたい・・・

妄想が広がっている。(笑)

素材重視の素朴な暮らしが私の理想である。

 

ホント、自動車やら巨大輸送の交通社会など

無くなってしまえ!というのが本音である。

 

道路や鉄道や船、飛行機などあらゆる交通には

巨大な場を設けなくてはならない。自然を破壊して。

旅ではなく旅行というものは、自己意識の喪失感・枯渇感の暮らし方から、

補正のための行為であろう、と。

あらゆる物資や人間の移動が必須とされる金銭労働も、

自然破壊に至るものしかないのが現況である。

 

 

*************

 

 

現代日本の住宅は、石油を消費させるため。

あるいは、欧州米勢の利益をもたらす貿易。

(偽ユダ株主多国籍企業プランテーション事業が主軸の貿易)

 輸入材で日本の森林が疲弊する方向へ、

生活様式や日本人の思考が西洋礼賛になるよう、

自然から乖離し、窓も小さく、化学薬品や人工物質を多用し

電力がないと暮らせない、人工空間で閉鎖的になる暮らし方を

推進しているように見て取れる。

 

巨大なビルなどの建築物は、

人間の潜在意識への圧迫感・卑小感・依存心を与えることを

キリスト教の西洋建築にそれは見出される。

昨今は、その縮尺が雛形となり建造されているのであろう。

 

 

日本建築様式が形成されて以降、昭和・平成初期までの建物の縮尺や素材が、

人間の無意識に、安心感・安定感を与えるマテリアルであった。

それは、堅牢で柔和で親和的であったことを漠然とであるが感じる。

 

阪神大震災を目処に準備されていた)

建築基準法が国際規格に変えさせられたのは、

施工技術の便宜的なことではない。

貨幣経済のための輸入行為や特許収益や国家破壊やら、

現代日本人へ精神的な制御を網羅し、あらゆる悪意

(元地球人所望偽ユダ実施の人口削減の意図)のもとで、

定められたのだ、と私は推測してしまう。

 

それは火星への引越しを想定した住宅であると、

今時の、気密すぎる新築住宅を見るにつけ

妄想しながら観察する。

 

散歩中、古い日本建築の住宅と味のある庭木が植えられている

佇まいを見ると、ホッとする。

 

 

 

進歩発展などプロパガンダだァ〜と心の中で叫ぶ、

保守的で、こどもじみた、変なおばさんである。

 

 

 

 

 

妄想からの雑記 1

 

 

2019年8月後半から、どうも経済が非常に不安定になるとか。

NWO(ニューワールドオーダー=世界統一政府=無意識666悪魔支配)を目指す、

欧州貴族と番頭国際金融家やルーキーGAFAらが、

株価と仮想通貨をバランスシートとして崩壊に導く、

偽ユダ軍団が、毎度おなじみ自然の流れと思わせる構図、

その茶番の一歩を踏み出そうとしているのか。。。

 

 

 

2020年東京オリンピック寸前に、

パンデミックを作ろうとしているのか?

前々哨戦の程度だが、

あいちトリエンナーレの騒動も、これに含まれているかのようで?!

 

イルミナティカードの中に、和光もどきビルが、

崩れる場面を描いた一枚のカードは何を指しているか。

AKIRA」というアニメで、東京オリンピック中止のような、

予言めかした描写もそれは、偽ユダ集団の究極支配の野望が、

ガス抜きとして、込めてあるのではなかろうか。

 

(偽ユダに関する、ワタシの解釈としての〝ガス抜き〟という表現は、

 集合〝無〟意識に対しての合意を利用する方法)

 

ワタシの妄想であるが、銀座和光の襲撃場面のイラストに対し、

どこぞのUFO=(USA軍&元ユダ人現金星)が襲ってくる状況を

想像してしまうのは、

暑さのせいでワタシハどうかしているのだろうか?(笑)

 

いやいや、今の思い付きで書いた話ではない。

 

今までいくつかの小耳に挟んだことでさらに符合したのは、

第二次世界大戦東京大空襲でも、東京銀座和光のビルが

空爆に合わなかったことを疑問視する話は、密かに知られている。

 

 

イルミナティカードの由来について一つ喩えるなら、

ミッキーの元々は、FIlexというキャラクターのパクリなのデスが・・・。

未だ、Wディズニーが貧乏時代にネズミをヒントに

ミッキーマウスを発想発案したという嘘話を信じている、

アホらしいこの現代日本社会の、異常な常識と同様で。

 

イルミナティカードが、USAのどこぞの玩具メーカーが気まぐれで、

そのカードを発売したものとされているが、そんなハズは無かろう。w

 

映画や小説・TVドラマ、雑誌・印刷物、

あらゆるマスを使ったマスゴミ発信の報道も含め、

あらゆる言説は、史実を歪める目的で

何もかもすべて喧伝なのだから。。。

 

 

 

集合(無)意識と集合意識の制御・整合のためのガス抜き宜しく、

欧州貴族や国際金融家、そして(K氏説による)元地球ユダ人(金星)の帰還

悲願(←ここがウザぃ)のための、

現実的な第一歩にしたい序章、とワタシは妄想している。

 

 

 

これから世の中は、しばらくどんな展開になるのか?

どうってことない感じで、時代は流れるのか?

かなりビミョウな時期に突入してる気もしている。

 

何もなければ、単なる妄想ブログ記事でいい。w

 

 

 

ともかく、貨幣経済のヤツらの意向・・・

移行が、欧州貴族&元地球人の

意図するところから、外れていく・・・

真っ当な人類想念の流れに向かうことを信頼しよう

(元地球人はK星で生きるのが最も良い)

 

 

地球の自然と本来の生命・・・その実相を取り戻すには、

貨幣経済の終焉より他はない。

まだ、先になると思うけれども。

 

 

元地球人に支配されやすい意識の特定の人間達が、

富を維持・拡大する状態があるのに、

それを大衆が気付かないまま時代が続けば、

現在のゴイム状態の大多数の人類は淘汰、排除される流れがある。

それに気付き、乗り超えるのには、

偽ユダ集団の道具である、マスゴミや政治経済教育による、

衣食住などなど、ありとあらゆる常識を絡めた喧伝が、

あることを知る必要性があろう。

 

 

偽情報にあふれている。

 

真相・真実であるか、ワタシももちろんのこと

誰もが、幾多の時を経なくては、わからない。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家族の思想を知る

 

 

家族とは、他人ではない。

血縁とは何か。

窮地の時、自分の身になって感じられる

その関係は、他人と家族の一線でもある。

 

もし、最悪の状況になった時、大親友が助けてくれるかどうか。

身を呈して、身を投げ出して、命を守ることは、有るか無しか。

肉体の流れとして残したい生命のエゴ。

可能性として、母親はどうだろうか。父親はどうだろうか。

 

昨今は、肉親という繋がりが希薄に感じられる喧伝が溢れているけれども。

命のつながりは、巷で声高に響く〝愛、i、アイ・あい〟〜〜と唱える、

その〝愛(ai)〟を

超えるのか、超えないのか、の問いが、

未だ、私には解らない。

それはそれとして。

 

 

***********************

 

 

日常に於いて、家族と互い向き合う情緒的な事柄は、千差万別だけれども。

 

案外、お父さんの考えている思想的なものだったり、

案外、お母さんの考えている思想的なものを

 

人物の全体性を知ることがないライフスタイル・生活思考パターンが、

家族の摩擦を生み出している、

やも知れぬ。

 

自分の考え方が形作られる思春期の頃。

自分自身を十分に観察し、それは何に由来する思考なのか…。

親の考え方、及び願望を客観的に知っていたら、

自分を更に深く知る手がかりになるかも知れない。

 

それは、祖父祖母やそのまた先代の先祖の思い、願いが

己の人生の中に、基点として散りばめられていることを

気づくのも、己の人生の生き方の指標になるのかな…と

思ったりする。

 

数年前、私の気づいたことに、母親が生きたかった生き様を

娘が体現するという構図が、実はよくある、という観察だ。

父親と息子の関係性も同様だろうか。

そのあたりは、女性である私には解らない。

社会というフィールドでは、もっと複雑になるだろうから。

 

 

ともかく、願望を含む想念が、次世代に発現されるという

これまでの時代の形象に、

縁という事象・意識の方向性を感じずにはいられない。

 

が、これからは希望・願望が即、実現するという世界が

始まるようで、意識の分断なのか、個の強化に依るものなのか。

潜在意識の欲望が滅せられる流れなのだろうか・・・。

 

血縁が希薄になりつつある今の世は、

どこへ向かうのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「旅」について思うこと  ____5

 

 

人生は旅である。

と、どんな人でもふと思ったことがあるかも知れない。

文豪や哲学者もそんなふうに感じていた言葉も残っているようだ。

 

 

ひとり旅という言葉は使うが、ひとり旅行とはあまり言わない。

ひとり旅は、ひとりで生まれひとりで死んでいく人生のあり様と重なる。

人生哲学のような、ひとり旅という言葉に対し

「旅は道連れ 世は情け」という言葉は人生の教訓、生き方を示唆している。

何が違うのか、考えたらきりが無さそうだから、ここでは考えるのはやめておこう。

 

旅行に含まれる意味は、イベントあるいはレジャーであり、

旅の持つ、味わい深さ、あるいは重みのような匂いはしない。

 

言葉のニュアンス、含意について羅列してみよう。

旅には、無目的であることもあるし、

目的や都合があっても、旅になることもある。

旅行というものは旅行そのものが目的である。

旅は、帰ってくることもあるし、行ったきりになることもある。

旅行は行って帰ってくることを前提としている言葉である。

と、とりとめもなく「旅」と「旅行」について思いを巡らしてみる。

 

熊が旅に出るという言葉はしっくりくるが、

熊が旅行に出るというのは奇妙に感じる。

 

タンポポの種が旅をした、という言葉に、想像力が湧くが、

タンポポの種が旅行をした、という言葉には、違和感がある。

 

旅をする魂。

旅する魂。

「旅」に「を」(格助詞)をつけるか否かで、

名詞である言葉に動詞的な含みが湧くような気もする。

 

 

 

宇宙は意識の海を旅している。逆も真なり。

意識は宇宙の海を旅している。

どこまでも拡大解釈できる摩訶不思議な「旅」という言葉、概念。

旅に含まれる意味を私なりに分解して解釈すると、

見えない世界の「二度とない時間」と、

見える世界の「二度とない空間」を

いかようにも楽しむことのできる意識体験であり、

抽象的であるけれども、無常を意味する、変化し続ける、

旅も、また自然摂理の一部と言えるかも知れない。

 

 

旅行という価値観をさげすむような表現になってしまうが、

きっと日本人なら誰しも、旅の意味に比べ、

旅行というものを世俗的に感じている面はあるだろう。

思うに、金銭礼賛の物質文明社会だからこそ、

旅行という行為・概念が通用するのかも知れない。

 

日常と非日常の境目がはっきりしていて、

家があり、帰ってくることが前提である。

ほぼ乗り物を使って、快適であることも重要だ。

現代人の多くは仕事と遊びの時間が分かれている。

仕事で得たお金を日常と非日常に振り分けて使っていく。

旅行は、現代社会に於いては、非日常を作るのに重視される

大切な時間の過ごし方でもある。

 

旅について哲学的な話を書きたいところだが、

そこまでワタシは人生経験豊かでないから、

ひとまず、このくらいで横に置いておこう。

 

 

 

 

 

ちまたの音楽や映像・画像が発信配信される意図、行方に。。。何となく感じること__その5

 

 

 

映画史をほとんどワタシは知らなかったので、

メモとしてWikipediaより簡略に記す。

 

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19世紀前半に完成された写真技術を現実の運動の記録として再現を試みるべく、19世紀後半、フランスのマレー、アメリカのマイブリッジ、ドイツのアンシュッツなどの研究があった。これらの人々の研究の集積の上に、1893年エジソンの映写機・キネトスコープを開発し一般公開。フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフ=現在のカメラと映写機と基本的な機構を持つ複合機(カメラ・映写機・プリンター)を開発し1895年3月にパリの科学振興会で公開。エジソンのキネトスコープは箱を覗き込み動画が視えるものであったのに対し、リュミエール兄弟はその箱の仕組みからスクリーンに投射するものへと改良し、一度に大勢が映像鑑賞を可能にする技術を作った、というのが現在の定説らしい。

リュミエール兄弟らが公開した世界初の映画群は、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる情景のワンショットを撮影したものなど計12作品。初めて映画を見る観客は、「列車の到着」を見て、画面内で迫ってくる列車を恐れ観客席から飛び退いたという逸話も残っているという。映画が実用化された頃は情景描写であったが、やがて筋書きを含む演出作品が作られていった。

詳細はwikipedia【映画史】で。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A0%E7%94%BB%E5%8F%B2

 

**************

 

ウィキペディアの記事の中に、映画という技術ができたばかりの頃、

大衆のための初上映で、列車の到着を見て画面内で迫ってくる列車を恐れ

観客席から人々が飛び退いた、という話は、現代では笑い話かも知れない。

 

が、動物や赤ん坊が映像を見て、現実と映像を倒錯し勘違いして

話しかけたり、吠えたりすることは、先述の列車を恐れた観客と

ほとんど変わりがない。

人間の意識というものは、自己と他者の違いを認識できる歳になれば、

経験した顕在意識にある記憶のお陰で映像が単なる道具、

媒体であることは承知できる。

 

 

脳の中の意識なのか、境界のない宇宙意識に類する意識なのかは解らないが、

最近のスピリチュアルや脳科学の言説に例えば、

他人を咎めると、潜在意識では、自分と他人との境目がないから、

結局、自分を否定する咎めることになる云々、という話がある。

 

考えてみれば映像も、現実か仮想なのかは、顕在意識では分別できても、

潜在意識では、現実のように捉える可能性があるだろう。

特に、映画やドラマは感情が盛んに揺さぶられ、感動も含め

ある程度は、顕在意識と潜在意識が曖昧になっている

変性意識の状態に陥ると思われる。


特に、映画館などは暗くした状態で鑑賞するのだ。つまり、催眠状態である。

映画館の画面だけが明るい暗闇の空間は、非常に精神への影響が大きいだろう。

軽症だがマインドコントロールが発生する、とワタシは思う。

それらを考えれば、より慎重に視聴する必要があるのではないだろうか。

よって最近は映画鑑賞を基本的に避けるようにした。

また、歴史について思い巡らす時などは、頭の中で拾い集めた映像によって

想像力を使うものだから、意図的な映像が頭の中で動き出すと、

偽言説が優位になって誤謬が起きることも考えられる。

特に歴史に関した映画は見ない方が、賢明だと考えるようにもなった。

 

 

話は逸れるが、陰謀論について賛否両論であるが、

実相を見れば明々白々であるのに、

本気で考えない見ようとしない人の方が多いと感じる。

お金を使って便利に効率的に変化した社会に

不安や疑念より、むしろ、良い時代に生まれたなぁ、と

人生に対して肯定感を持って生きている人が大多数の時代。

映画という娯楽も、進歩発展した時代の良き道具として、

それを楽しむのが常識である。ワタシの映画への疑念など一笑に付されるだろう。

 

前回「カンタ!ティモール」について政治的な誤謬が起きるとして、

意見がましいことを書いたが、製作者の伝えんとする思いは、真実であろう。

 

映像に映っていた取材当時の地元の人々の、はち切れんばかりの笑顔の記録は、

政治に翻弄されながらも、自然を畏い自然に抱かれる生活がある。

だから、地域の人々に助け合う心は失われず、苦難を乗り越えられ、

悲しみを受け入れることができたのだろう。

瞳の輝き、笑顔、幸福感が、自ずと伝わってくる。

映画、TVやゲーム、PCがほとんど無い社会の方が、

幸せ気分ではない、真実の幸福感があるというものだ。

 

人間は自然界の暮らしの中では、多様な脳内や体内のホルモンが

完璧なタイミングで分泌され、

精神も肉体も満たされる、と私は思う。

 

だが、人工空間では、時にやる気を起こしたくて、

コーヒーをたくさん飲んだり、

興奮したくなって、映画やドラマを見たり音楽を爆音で聴いたり、

ゲームに没頭したりして、目や耳だけを極端に刺激し、

ほぼ無意識に、アドレナリンを出してみたくなったり。。。(アホっか)

 

不快な人工空間を受け入れるよう、不快さを認識しないために、

香水や芳香剤や洗剤で嗅覚だけをごまかして

副腎皮質ホルモンなるものをほぼ無意識に、

分泌したくなったり。

 

睡眠時にセロトニンだ、

オキシトシンはスキンシップだ、と、

分裂的な努力をしなくてはならず・・・。

それがさらに、自己欺瞞を増やし、

精神と肉体のバランスは、崩れていくのである。

 

 

素朴な暮らしだからといって、知性が劣る訳でない。

むしろ自然からの気付きは豊かで、人として幸福感がある生き方こそ、

知恵深い証である。

人工社会で生きるワレワレは知識は多分にあっても、知性の使い方が歪み、

決して知恵深いとは思えない。

人工的な場で、幸せ気分は多少作れて、高揚感は発生したとしても、

生きることそのものの幸福感は薄いのだから。

 

人工社会にある音楽や映画・映像画像、様々な文化は、

幸せ気分は多少作ってくれる。

だが、真の幸福感になるのか、と言えば、なんだか違う気がする。

所詮、慰みではなかろうか、と思えてならない。

 

 

 

宗教や道徳倫理という外部からの啓蒙で、

感謝だ、前向きだ、感動だ、良心だ、幸せだ、と

一神教的思想教育や倫理観が連綿と続き、浸透してしまっているから、

自らの発露ではなく、自身の心に言い聞かせるようにして

無理強いの肯定感というものに、自己欺瞞が潜んでしまう。

更に、人によっては罪悪感もおまけで付いてくる場合もあるから、厄介だ。

 

人工的な世界では〝良心擬き〟それこそが、迷路、暗闇を作っている気がする。

己の心の奥底を見つめる、認める作業をしなくてはならないことと、

偽ユダの作り続ける人工世界は、現代人の心の闇と連動しているから…。

 

この地球では自然と共に生きること以外は、

各々が、徒労とも言うべき精神的な暗闇の確認作業をしなくては、

精神と肉体のバランスを取ることができないのだろう。

つまり、人間も生物であるから、

人工世界では、生きずらいことが前提、と思うのである。

 

 ***********

 

約200〜150年前。工業技術が次第に多様に編み出され、

人工的な生産物質は増え、自然と関わりの深い食を直接的に得る

農耕という仕事から、大多数の人間が徐々に乖離しつつ、

税金を前提とした人工都市の労働を中心とした社会になり、

金銭が不可欠な暮らしへと変遷した。

それは人生の暮らし方の選択肢や、

個人の才能能力特技を発露させ謳歌する場も網羅した

社会構造へと急速に姿を変えていった。

 

一方で、人間以外の他生命、動物や植物は選択肢どころか、

犠牲があまりに酷い状態になっていることに目を背けている現状。

地球全体が痛めつけられている自然の状況を感じると、ワタシ個人は

泣きたい気持ちになる。こどもっぽい感傷かも知れない。

が、それはどうしようもない湧き上がる感情である。

 

自分が幸せ気分なら、他人・周りも、他生物だって幸せだろう、というのは

人間の身勝手・自己欺瞞ではないか、と思ってしまう。

己をなだめるような幸せ気分と、社会、地球全体の幸福感の違いを思う。

 

社会の一員から外れ野生の中で生きることもほぼ不可能。

が、最近は徐々に人工社会から外れて生きていく人たちも増えている。

人類全体が、欲望を満たし幸せ気分に酔いしれる社会が、

実は狂気の世界に向かっていることに

賢い人たちから、気付き始めているだろうか。

 

************

 

映画・映像・画像はとても人工的なものである。

様々な視点を持って想像し表現していても、

立体映像であろうが、五感を刺激できるバーチャル型の映像だろうが、

所詮、人間の視点でしか作ることができない。

 

技術が進歩して、五感を擬似的に体験する・・・。

その目的は、地球から偽ユダの差別対象である有色人種が

火星へのお引越しを促すご予定、その想定で、

馬鹿げた技術が研ぎ澄まされていると思うのだ。

偽ユダあんたらが引越しせぃ、ってなことである。

 

 

パソコンの文字変換さえも、文字ソフトに聖書のための有効性を含有させて、

開発している偽ユダ主導のクラウド化。私の中では、信用できない道具だ。

〝イサクの燔祭〟をタイピングした時には一発で、

〝ハンサイ〟という熟語が出てきたことに

驚いたワぁ〜〜〜〜。

たわいない日本語、熟語は、すぐには変換できなくなっているのに。

日本語さえも壊そうとしているのが、偽ユダですから!

そんなこともあって、前回の考察(改ざん旧約聖書の予定に準じた予言なる社会風潮)は、

ひとつの事例として、あながち独りよがりではない、と判断した訳で。

(顔?!ブックが布教用なのは知られたことだが。。)

 

 

*****************

 

もっとも伝えたいことが、後回しになった。

 

日本人の信念体系を思うとき、

以前にも記したが、学校教育のお陰で

多くの日本人が口にできる、

平家物語の巻頭の言葉を思い出す。

 

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
驕れる人も久からず
だた春の夜の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
ひとえに風の前の塵に同じ

 

仏教の無常観が、私たちにはあると思う。

 

中世から、欧州貴族勢が権力や富を持ち続けるという実態に、

現実味を感じないのは、この無常観というフィルターがあるのも、

少しは関係しているのではないだろうか、と。

 

無常観というものは、ある意味で平等感にも繋がっている。

破壊と再生が人為を超えた力で、なされていることを

集合無意識に近い潜在意識が捉えている。

日本人が今も尚、平和、調和、平等が、心に響くのは、

自然界のうつろいが人間社会にもあると信じているから、と思う。

それは確かに普遍的で、自然の「ことわり」という感覚が、私にもある。

 

ところが、欧州は石や金属を使って暮らしを成り立たせる歴史だ。

何百年何千年も物質を維持せんとする即物的な思考、生き方が、

欧州貴族たちの理想、哲学や美学なのだろう。

 

体感や感受性ではなく、神話や聖書が根幹の精神性。

中世前後からそれが、彼ら集合無意識の信念体系になったと言えるだろう。

永遠の生命だとか、永久の富、不変の名声名誉、完璧な家柄や血族という

ものを信じて止まない価値観と思う。

永遠を目指すという幻想がお好みであり、彼らの嗜好なのだ。

ともすれば、人類創生は欧州貴族勢のオカゲダぁくらいの気合いで、

そんなこと嘘でも、まことしやかに言説や科学証明を塗り替える勢いで、

暗躍しているんだと思う。

遺跡破壊とか隠密の遺跡物収集なんか、そんな感じで・・・。

 

上から目線みたいな発言で恐縮だが。。。

 

で、自然の摂理は、やはり無常が真実、と思う。(東洋思想の勝ちぃ〜!笑)

にも関わらず、

中世からだろう、欧州貴族勢や、およそ17世紀に登場した国際金融家の

君臨を許し続ける原動力となっているもの、

それは、何か。

 

集合意識でのより多くの人への認知や操り、とワタシは思う。

カバラ数術や陰陽道が、権力維持装置とも思ったりする。

 もちろん、マスゴミ、マスメディアや印刷物による教育や宗教思想啓蒙も。)

 

集合意識レベルで様々なガス抜きの方法が、

あるんじゃなかろうか、と。

アホみたいなことを考えてしまうのである。

 

ガス抜きとしてそれは、映画の中で、

ちらっと密かに真実を込めてみたり。

(悪意ではなく、善意的な真実のメッセージみたいな。

 テレパシー能力が人間には本当はあるょとか、

 経済の中で悪意はあるけど、

 本当は救世のためだよ、みたいなメッセージなど)

以前に記したスイス国家防衛のノウハウ本を

一般化する出版をしてみたり。

慈善事業や寄付贈与を盛んに行なったり。

(結局は系列で富を巡らしているだけだが)、

法律や様々な契約に類する物理的に証明できる物や組織では、

善意を大衆に向けて周知できる状態にしておくこと。

 

他者を規約などで間接的に縛りつつも、ほんの少しだけ、

真実や善意を含ませて、他者を安心させてみたり、

喜ばせてみたりして。

 

比喩的には、宇宙銀行の貯金が減らないような

無駄に、涙ぐましい努力をしているんじゃないかな?と。。。

あまりにもファンタジックな与太話で、すみません。(汗)

 

ともかく、無常という理は真実と思う。

だが、それさえも、スルーしちゃえる悪魔的ノウハウを

持っているのが、連綿と君臨し続けてきた秘訣?!と、人工種である

欧州貴族勢力や国際金融家に対し、そんなことを思った次第。

陰謀が、陰謀論として闊歩している所以が、

彼らなりのガス抜き法なのかいナ、と。

 

 

 

 

ひとりよがりな内容でゴメンナサイ。m(_ _)m

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちまたの音楽や映像・画像が発信配信される意図、行方に。。。何となく感じること__その4

 

映画についても書いておこうと思う。

 

 

ロードショーとして配給される映画には、

多くのプロパガンダが込められていることは

周知されているだろう。しかもそれは、公開される前から汚染脳のために、

特に注力し、宣伝する映画は明らかに政治戦略も込められている、と思う。

例えば、象徴的に思い出されるのはワァーキングガール(1988)という映画だ。

昭和の末くらいまでは、日本では企業の「乗っ取り」という言葉が一般的で、

そうした事例はあったけれども、イメージを払拭するのに、

乗っ取り=M&Aが、盛んなUSAの土壌を日本に持ち込むため、

企業買収の認識をやんわりとキレイ事に一般化するのに、

また進歩的なイメージ(ショウもナイ手法)も与えるのに、

格好の映画となったことだろう。

しかも女性労働者を倍増させるのにも一役買ったに違いない。

 

例に漏れずワタシも鑑賞したのだが、当時はUSA型の企業買収の意味が

今ひとつ分からなかった。今も詳しくは判らないが。。。

かつ主人公の職業が抽象的で変な仕事、

不自然なことではないかなぁ、くらいは思った記憶がある。

 

 

プラザ合意が背景にあって、1991年バブル経済を崩壊させた。地価急落、電電公社民営化でNTT株価の急騰と暴落劇、山一証券破綻や、スキャンダルをマスゴミで取り沙汰し長銀などの解体、再編が続き、外資の息が掛かった銀行に変わって、企業への貸し剝がしが頻発した。倒産件数は毎年更新。人材、資産、技術は徐々に吸い上げられて、怒涛の如く日本企業は外資企業に買収され続けていった。郵政民営化が更に日本経済に大打撃を与え、現在の日本は正規雇用の悪化、賃金低下、法人税所得税引き下げと、大企業還付金のための!消費税増外国人労働者流入など、マスゴミで本質とは違う問題点を取り上げフル活用し、世論を狂わせ、その後、国体を揺るがす諸悪の問題の列挙にいとまがない。

 

 

いち娯楽映画がバブル崩壊を牽引したとまでは言わないが、

1988年公開映画と1991年バブル崩壊に様々な意図が全く無かったとも思えない。

大衆側の知ったつもりになるM&Aに対する漠然とした認識や進歩的という錯覚。

恐怖と同様に、「憧れ」という類の肯定感によった集合意識のエネルギーは大きく、

社会を動かす原動力ということを偽ユダは、熟知していることだろう。

繰り返し書くことだが、中世以降すべての大陸諸島を欧州貴族勢が強奪強姦破壊で、

民族社会を植民地化していった。それが、装いを変え国際機関云々を使い完全防備で、

合法化された略奪行為が、M&Aあり、民営化であることを日本人全体が、

終戦直後、せめて昭和30年代頃から日本人リーダーらが、

それを研究分析し波及させなくてはならなかったのだ。

年月を経て、日本人が偽ユダの胸算用に気付いても後の祭りであった。

 

欧州貴族勢や国際金融家らの巨悪を払拭するのに

戦争は論外で、かつ経済競争力でもなく、方法はただ一つ。

今後の未来、偽ユダの生命の水であるお金の消滅。

生命維持装置である変幻自在の政治経済システムの消去、

それに類する概念がこの地球から消える生き方を

各々が模索すること。自然破壊による人工物にはできる限り依存しない生き方、

そして地に足をつけた生活の中でアミニズム・精霊信仰・八百万神を

改めて思い出すことだと思う。

人間本来の意識を思い出させないために、

人工物質人工空間を増やし続けてもいるだろう。

 

 

 

ロードショー映画の中で瑣末なことでは、特定メーカーの飲み物を

さり気なく主人公が飲んでいたり、

画面の中に偽ユダが大好きなカバラ数字が入っていたり、

性的な文字が子供向けアニメに潜ませてあったり、ネズミィ映画では

子供がキャラクターグッズや雑貨を欲しくなるような

小道具が繰り返し映像に出てきたり。

サブリミナルという言葉も流行ったが、

様々な映像汚染脳に大衆は、未だ無防備だ。

もちろん、日本でもドラマのみならず、ニュースもプロパガンダ

大いに仕込んであることは分かっているが、それは割愛しよう。

 

分かったような指摘をしても、所詮単なる鑑賞者の私には漠然として

憶測めいたことしか言えないのだが。

 

未来イメージを偽ユダのシナリオ(旧約聖書)の予言的

内容に則した表現にしていることもたっぷり含まれているだろう。

予言(予定)らしき内容を映画に盛り込むのも、

そうした未来を召喚したい偽ユダらの願望に違いない。

 

更には殊に思うのは、「真相や真実」を隠蔽するために、偽ユダである体制側は、

映画やドラマ等で微かに「真相や真実」を実は表現しているのではないか、と

思うのだ。これを具体的な例で挙げることができないので

説得力はないが。(笑)

 

ともかくは、数年前から、映画を鑑賞する行為は不本意にも

すべからく偽ユダ主導の未来ビジョン、

元地球人が地球に帰還する悲願のための、

 改ざんされたであろう旧約聖書の、人口削減のシナリオ

実現するための協力者になってしまうことを感じてきた。

加えて、真相や真実を無意識レベルとしても視聴した時、

偽ユダらの存在を温存する仕組みが、映画などにもあるのならば、

決して、見てはならない、とまで思うようになった。(変人デス・笑)

尤も、映画やドラマを見るとプロパガンダや偽言説の汚染脳オンパレードと

受け取ってしまうようになった情報の蓄積で、楽しめるハズもなく。(笑)

 

 ************

 

そんな変人になったワタシも、十〜三十歳代の半ばまでは、

マメに映画をウカウカと見てきた。

十代の頃は映画に興味を持つ友人に誘われるままに、

USAのロードショーで大ヒット映画と言われるものをいくつも見た。

 

高校までは特に映画が好きではなかったけれども、古い映画について

耳にする俳優女優の固有名詞が今ひとつ判らず、二十歳の頃から、

心がけて、単館上映の名画と言われる古い映画、主に洋画を見ていた。

単館上映では、古い映画のみならず、マイナーな監督の新しい映画も

上映しているから、気になる映画情報があれば、それも鑑賞してきた。

それはそれとして、楽しめる世界であった。

だが、表現の自由憲法で謳うにも関わらず、

財団法人(偽ユダ系デショ)として映倫なるものが

映画配給のため君臨する、暗黙かつ実質的な法規制がある。

(参考https://www.eirin.jp/index.php)・・・NHKと似たような立ち位置ダ。

戦前の映画法を悪法と定義した、これもGHQの置き土産ダナ。

 

時には、潜在的プロパガンダのためにマイナーな映画も網羅しての、

映画配給であることを何となく感じる。

 

例えば、地道に単館上映している東ティモールを応援する

ドキュメンタリー映画「カンタ!ティモール」は、

製作者が純粋が故に、偽ユダの意図を

反映させてしまってもいる、と思うのである。

独立国家という一見、有志を思わせる政治的動向、

大衆自らの政治運動=(教育や倫理、宗教価値観、

マスゴミを使い、大衆自らの意志と思い込ませる刷り込み)

が、偽ユダの仕掛ける罠であったことが、

独立を果たしてしまったその先に、見えてくる。

 

だからこそ、映倫を通過し上映ができるのだろう。

独立の果てに何があったかの結論から言えば、

オーストラリア(偽ユダ国家)が油田利権をまたもや収奪したに等しい。

(日本ODAインドネシア経由でたんまりUSA軍需産業にカネを巻き上げられ、

   偽ユダ圏オーストラリアに石油採掘権が転がり込んで、という

 ビリヤードの如くいつも通り弄ばれている。

 かつ、インドネシアへのODAは二十数年間USA軍需産業の旨味じゃないか。

 ワレワレの税金で。。。悲しすぎるワナ。苦笑;)

 

インドネシアからの独立というのは、インドネシア

石油利権を絶対に渡さない偽ユダのいつものやり方であった。

 

そうなるためのシナリオは、キリスト教が事前にティモールに蔓延り

インドネシア側からのイスラム教の脅威というプロパガンダによって、

大衆はそれを刷り込まれている。そして、独立という偽の理想を掲げ、

毒の実がまたもや、結実してしまったのだった。

 

日本中世の真相、キリスト教者の仮面を被った悪魔の商人たちが、

獣の如き扱いで日本人を奴隷とし世界中に数十万人が売買されていったこと。

各地で寺社仏閣破壊があったこと。欧州勢の極めて利己的な貿易をアジアで

繰り広げその悪行によって、日本はバテレン追放令や鎖国せざるを得なかった時代。

その史実、歴史の本質を見れば、毎度お馴染みの茶番劇であるのにも関わらず。

 

大衆は、キリスト教ユダヤ教あるいはスピリチュアル動向の本質を未だ見抜けずにいる。

イスラム教を悪とみなすパターンを持って、毎度のことである。

 

国連が偽ユダ所有の機関であることが、証明・周知されない限り、

ほぼ不可能だけども、もしインドネシアが石油利権を確保できていたなら、

東ティモールは、自治区という形で住民が素朴な暮らしが未来へ続く

可能性があったかも知れない。

元来、平等な形で資源地を各国の所有と認め、自然保護を主眼に

自治区を維持させ助力するのが、理想の国連の役割だろう。

が、偽ユダ機関がそんな善意・良心を発露することなどあろうはずがない。

 

 

 

インドネシア・東南アジア・アジア全体の情勢としても、

姑息すぎる偽ユダ勢力に、またもや騙され、

いい迷惑の独立運動プロパガンダとなってしまった、

・・・という解釈である。

 

 

 

 

 

 

ちまたの音楽や映像・画像が発信配信される意図、行方に。。。何となく感じること__その3

 

 

話を演歌に戻そう。^^

 

昭和40年代前半の生まれであるワタシが少女の頃は、

演歌が流行歌として全盛期であった。

だが、幼い頃のワタシは演歌を街のどこかで、

TVやラジオで聞こえてくるたびに、

耳を塞ぎたくなる程、苦手だった。長調の演歌はそこまで

毛嫌いしていなかったが、短調の演歌が大嫌いだった。

が、ふと気を許すと歌詞が耳に届き、それを解釈、受け止めると、

あまりにも重くて心がざわつき、両手で耳を塞ぎたくなる

衝動に駆られるほど、生理的に耐えられなかった・・・

そんな記憶が今も残る。

 

一体、どういう人たちが短調の曲、悲しい人生を歌った歌詞に

心を動かされるのだろうか、と。

 

大人たちの複雑な心理。夜の世界での感情の捌け口。

家庭の悩み、将来不安、生活、仕事、お金の不満や失敗、不倫や失恋。

心配・不安、後悔、憧憬や焦燥、嫉妬、諦念、悲哀、自己否定、自虐。

執着、あらゆる罪悪感。。。

 

暮らしに疲れた大人たちが、どこかのカビ臭い空間で、

流行歌、重たい波動の音楽を聴きながら、憂さ晴らしに

人生の悲哀を音に、歌詞に、感情をのせ溜息をつき、共鳴し、

明日への生きる気力を絞り出しているのだろうか・・・と。

 

生理的な感覚からか。これから生きていく幼いワタシは、

人生ドラマの暗い面を拒絶したい気持ちが込み上げて来て、

「嫌い」だったのかもしれない。

 昭和30〜40年代に演歌と並行してビートルズの影響であろう

若者向けの華やかで軽い流行歌もあったけれども。

 

時代は流れ、昭和の末から平成の時代にかけて、流行歌のトーンが

はっきりと変わったことを感じていた。

その頃から、流行歌が悔恨を癒すような重たい歌詞、歌謡ではなく、

人形よろしく着飾ったアイドルらが、言わば稚拙な恋愛気分を歌う

歌詞やメロディーに変わっていったと思う。

その頃、思春期にさしかかり、錯覚か?!

時代は明るい方へ向かっているようにも感じていた。

思えば、幼い当時の昭和の後半は、

高度経済成長で活力を取り戻した日本社会と言えど、

第二次世界大戦の爪痕もまだ残っていた。

時々、繁華街には軍服をまとう元兵隊さんが

戦地で、片足を失い、募金(カンパ)を求める姿が記憶にある。

祖父母の戦争中の話を繰り返し聞かされたり、

戦後GHQの占領下に、日本人がどんな扱いだったかを父母からも聞いていた。

戦争で夫を亡くした知人や親戚のこと。空襲で隣人が無残な死をとげ

それを目にしたこと。学校へ行けど、軍事演習よろしく、

戦争のための労働を子供たちも強いられた。

50Km先の街の空が空襲で燃え赤くなっていた日のこと。

空襲の最中を祖母は幼い父や叔父を乗せた乳母車を押し逃げ惑い、

命からがら助かったこと。疎開のため荷物を送ったが、

国鉄への空襲で全て焼けてしまったこと。

食糧は配給制となり、一般国民がかつてない

ひもじい生活を数年間続けざるを得なくなったことも

繰り返し聞かされた。今の2000万円位を米一俵を得るのに使ったこと。

雑草を食べることもあった超食糧難、

そしてあらゆる物が失われた、無くなった昭和16〜20年〜23年頃、戦中戦後の時代。

 

 

ところで、音楽そのものは実は短調の曲の方が、

人の心を癒す性質を持っているらしく、流行歌が

重い演歌など、短調の曲になっていたのも、戦後の重さを

まだ引きずっていた当時だから、大衆はそれを受け入れ

やすかったのかもしれないと、後になってそんな解釈もした。

 

 

今の時代に目を転じ考えてみると、

社会問題に発展してしまう勢いで、多くの人間が不倫

不貞に興じていたり、風俗の世界に身を置き、性を売り

生活を凌ぐ人がある昨今。子育てを公的機関に任せ、

金銭労働を否が応でもせざるを得ないライフスタイルに

世の中の金銭礼賛の風潮がそう仕向けてもいる。

家族愛は風前の灯火と化していることをそこかしこで聞く。

他人事ではないのだが。

 

 

 

 

幼少期に流行した大衆歌謡。

その歌詞は不倫を歌い、失恋を歌い、奈落の底に落ちた女性の哀歌

裏切りや憎しみを男女の物語として何気なく大人たちが口ずさみ

その横で子供の頃、耳にした昭和の末までの世代。

その世代が、家庭を持ち子供を産み育てた平成の時代。

感情、欲求、欲望が、無意識の中で外部からのマスメディアの

音楽や映像で、魂を見失うような暗い未来ビジョンが、

実は流行歌などの使い捨ての音から、言葉(言霊)から、

影響を受けて来たことも考えられるかもしれない。

想念が、様々な音や文字で汚されている可能性がある。

もちろん、映画やドラマ、小説もそれと同様だ。

感情を汚染され、欲の方向が歪んでいくよう、

大衆があらゆるマスメディアを無意識に享受できる環境を

奴らは技術等で作り出している。

 

 

潜在意識に影響する幼少時代に、受けたマス(大量)の影響が

次世代社会、その風潮を作り出してしまう。

 

妊娠中に、不倫を歌った歌謡曲を聴くよりも、

ヒーリング音楽やクラッシク音楽の方が、胎教に良いだろうことは

今更、言うまでも無いだろう。

 

 

昨今は、人形化したアイドルの「グループ」がマスメディアを席巻している。

20年位前からすでに映像画像は幼稚化を促すような

CGアニメ映像がもてはやされている。

 

前述した考え方を踏まえれば、

マスゴミ・マスメディアを支配する体制の意図が、

日本人の幼稚化・ロボット化 そしてアンドロイド化を加速を促すべく、

若年層の無意識に刷り込んでいることが窺える。

 

流行が、時代が、と安易に受け入れたり、

流行遅れとして

伝え続けてきたかけがえのないこと、

大切なことを切り捨てていくことが、

普遍性を見失い、

偽正義や偽倫理観に翻弄され、個人の闇が深まっていく。

個々の大衆のその闇こそが、偽ユダ勢力のエネルギー源とも言える。

 

*************

 

なぜ、数十年前に歌謡曲が重くて暗いく淫らな歌詞を

なんとなく、皆が聞き口づさんでいたのか。

無意識であるから、口づさんでしまっていたのか。

流行というものが、恐ろしい汚染脳であることに気付かない。

 

垂れ流されるアチコチの大衆音楽がいつの間にか

大衆各自の深層心理に潜り込み、

社会構造の破壊は長期的な意図をもって、

謡曲、歌詞にさえも、含有されているだろうことを

今一度、指摘したい。

 

そして、歌手に限らないが表現する才能のある者が

時に、純粋に親孝行のため、誰かのために自分の本意とは違う、

己を商品商材として、お金のため、

金銭を追い求める生き方を選ぶとき、

悲しいけれども世の中に、

負の種蒔きになる可能性があるのではないだろうか。

 

誰かを喜ばせたいが為に、と止むを得ないとしても、

それを自覚し覚悟して己を商材として

生きる表現者など、皆無だろう。

単にその恐ろしさを知らないのだろう。

 

右も左も知らない表現者たちが、夢だとか成功、お金のためとして

何者かを目指し金銭社会で負の種蒔きをする時、

それは〝ルシファーの供物〟になっていくこと

自覚した方が良い時代になって来たように思うが、どうだろうか。

 

 

 

 

【ひとりごと】

聖書の世界が無知であるワタシにとって、

書いて良いものかどうかわからないが、

〝イサクの燔祭〟に近いことが希釈され広がって現代社会の現象に

なっている気がする。

 

もともと、日本人は神という考え方は、

八百万神・・・宇宙摂理であり、

自然界はギブアンドテイク・契約・交換条件では無い。

 

 

〝神との契約〟というものが不自然に感じる。

 

(神との契約の時点で、自己救済の希求・利己がある。

〜無償さ〜を人間が大いなる自然に〝望んだが為〟

それと引き換えに、人間の疑念を〝証明する意志・行為〟を

一神教の〝神を信じる〟としたのだ、と思ったりする。

自己欺瞞が正義となった。

欧州ユダキリ教の虚の世界が、あっという間に世界中を覆ったのだ。)

 

彼らの言っている(聖書の世界)神は、堕天使である。

日本支配層も明治以降は彼らの世界観(一神教)なのだ

 

 

ルシファー的世界観に埋没しているこの世界。

虚の想念の枠の中で繰り返されている666の世界。

(元ユダ地球人・現金星人&地底人種が、地球に数千年間の関与か?!)

現 金.星人ダヨ(笑)

 

聖書にまつわる啓蒙、

その信者さんらが、宗教物語が心の支えになり、

照らし合わせ、一過的な原因の解明、救済の一助として、

虚の世界で、その言説が参考に、役立つのは、

当たり前だ、ということである。