ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

油  10…(6)

 

 

最近はあまり使わなくなった気がするが、
暇にしている人のことを「油を売る」なんて言う、皮肉の慣用句がある。

(言い得て妙カモ___石 油を世界中に売る権利を持つ人、
 輸入させる企業株主。…とてつもなく余裕で暇そうじゃないかぁ・笑)

 


昔、油を売る時、搾油には時間がかかった。
チンタラという言葉は、油が器に垂れるオノマ トペが語源だとか…。

ここまで、チンタラ……チンタラ……
油だからこそ、コッテリギトギト、石油はいかん!と
しつこく、もったいぶって綴ったが、
とどのつまり、後述することを伝えたかっただけデシタ。(笑)

 


******************

 

様々な繊維のひとつで、一般的な呼称としての「麻」(アサ) 。

古来から日本は戦前まで、
オオ ヌサ・オオ アサは、生活に必須の植物だったことを
戦後に生きるワレワレ世代は、知る由もない。
(ナンデダロウ~)苦笑。。。

 

 

オオ ヌサ・オオ アサ、つまり「大 麻」→‘タ イ マ’という呼称は、
戦後から、マスゴミが穢れたイメージを流布したのではないか。


大麻」オオ ヌサ・オオ アサは、戦前の日本では、野草としてごく自然に生え、
また栽培され、神事を始め、衣類や日用品として利用されていた。

 

近年、麻の布が衣料品で少し増えているが、
昔の日本で作られていた「オ オ ヌ サ由来の麻布」と、
現在の市場に出回る「麻 布」は、植物の種類が違うことも
次回に少し記たく。


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麻 布・麻 紙・麻 の 実 油として食用・燃料…。
日本に於いて、
古来から近代・戦前までは、大変重要な植物であった「オオ ヌサ・オオ アサ」。

 

熱帯から寒冷地まで生育可能。
一 年 草で成長も早い。
生活に無くてはならないものだった。

G  H Q 主導で施行された 大 麻 取 締 法 で、
偉大な植物 「オオ ヌサ」が、
戦後以降の日本で、
石 油 エネ ルギ ー・石 油 製 品 に取って代わられるまでは…。

 

 

 

 

また、詳しくは調べていないが、
西日本では「米」を、東日本では「麻(布)」や絹などを
年貢としていたことを
江 戸 期の話の中で知った。

 

 

オオ ヌサの歴史は一万年以上、有史以前の文明から、
人類が活用して来た植物であった。

 

二十年程前に読んだ内容で、
どの本に書かれていたかを忘れてしまったのだが。
(どこに記されていたか、それが肝心なのだが

 …_ _;…不明になってしまった…)


かすかに残る記憶であるが、
戦前の日本では、既に機械の動力、自動車も含め
大  麻 草の実から採れる「油」( ∧ ン プ油)を利用すること、
石油製ビニル素材に似た物まで研究が為されていたという。
「オオ ヌサ」を原料とする技術は、
実用可能に向っていた内容だったと思う。

オオ ヌサは石油を凌ぐ、偉大な資源の可能性を秘めていた。

既に現代で多用されている石 油 由 来の工業製品に 近似した物を
オオ ヌサから作る科学的な技術は、
戦 前 日本の技術(研究資料の略奪の可能性)が基礎であろうが、
USA欧州勢ら他国も、車体などで実用実績があった。

 

 

日本に石 油 大 量 消 費 による貨 幣 経 済の制御を
実現させたかった偽ユダ機関G H Qは、だからこそ、
やっきになって戦後日本政府に大 麻 取 締 法を
戦後、早急に施行させたかったのだろう。

(法律の欺 瞞の極み‘法’ダ。欧 州 由 来の法 治 思 想 が、

 如何に地球に超メイワクか。。。黒 幕が君臨できるシステムなのダ。)


戦後70年経った今でも、薬 物=危険という括りで
毎度マス ゴ ミが、プ ロパ  ガ ンダ を続けている。

 

 
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手元にある、オ オ ヌ サ(大 麻)に関する書籍より、
簡略し解 釈・私 見も加えて以下に記述。


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ご存知の「大 麻 取 締 法」「麻 薬 取 締 法」「覚 せい 剤 取 締 法」は、
厚 生 労 働 省と警 察 庁の「 ダメ! 絶対 」キャンペーンによって、
一緒クタにされて、規 制 物として日 本 一般 社会に、
大雑把に流布され、認識されている。

 

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日本の戦前(〜1941)まで栽培、自生していた大 麻 草 について


「大 麻」… 中央 アジア原産のア サ 科 ア サ 属の植物
=オオヌサ=へンプ(大 麻 草の茎繊維・大 麻 実の油・元来の日本は吸引習慣はない)

=カ ンナビス (欧州人が決めた学名、及び一般的な呼称)

=マ リファナ (南北 アメ リカ スペイン系メキシコ語のタバコを指す言葉だった)

 

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次に、
現 代 日 本 で、“ 麻 薬 ”と呼称・法表記されるものは、
「麻 薬」…ア ヘ ン・へ口イン(地 中 海 東部原産)ケ シ 科 ケ シ 属 の植物
=ナーコ  ティック・ナルコティクス (欧州での呼称)

 


清 国をア ヘ ン戦争に導き清 王朝を イ ギ リ ス が、
華 僑らを利用し破壊に至らしめた、
欧 州 由来のケ シ 科の毒 性を利用した
ア ヘ ン化合物が麻 薬・モルヒネ・ナーコ ティック・ナルコティクス だ。
(満 州で栽培していたア ヘ ン 密 売 巨 利 は、
 戦後、G H Qに服 従した(在)日 本 人工 作 員や、
 関係 政治 家の資 金 源であったことは、
 今や、多くの日 本 人は周知している。)

 

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覚 醒 剤について。

他某書 より 少々抜粋。

覚 醒 剤 を奨励していたのは、戦時中(1941〜1945)の日本 政府。
覚 醒 剤 を発明したのは東 大 教 授の 長 井 長 義 氏。 

戦時中、覚 醒 剤の錠剤を‘突 撃 錠’として特攻隊に与えられた。
戦時中、覚 醒 剤の錠剤を‘猫 目 錠’として軍 需工場で十時間以上の労働を
強 制し生 産 性を上げるため与えられた。

 

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そして、人類にとって、

日本にとっても重要な資源の

オオ ヌサ「大 麻」草が、薬物規制法の中で、

最も早い時期(昭和 2 0年代 初期)に、法律で禁止された。

 

それに対して…、、、、
戦 後 経済 復興のため!?(闇のカネのため?!G H Q様のご意向ゆえ?!)、
覚 醒 剤は、随分あと(昭和 2 0年代後期)になって、

法律で禁止されるという顛末だ。
ちなみに当時の、大日本 住 友 製薬 が、疲 労がポーンと飛ぶヒ口 ポンとして、
武田 薬品 工業 が、ゼド リンとして、大々的に売り出していた。

 


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・大 麻(オ オ ヌ サ)⇒ 戦前日本では自生し栽培もしていた生活物資の原料’ 
・麻 薬(ケ シ)    ⇒ 欧 州由来 の毒 物=ア ヘ ン

                                      (近世〜アジア圏で欧州勢が王政破壊に活用、または医療に利用)
・覚 醒 剤(長 井さん) ⇒ ネットで原料について詳細を検索するだけで

              クラウド監視が不気味で調べていない。(笑)’

 

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覚 醒 剤は何が原料か知らないが、ともかくは。

 

大 麻・タイマ(オオヌサ)と、 麻 薬 マ ヤ ク(ケシ)は、

原料がまったく異なる。

大 麻は草の名称だが、

麻 薬はアヘン化合物であり「麻」と言う漢字とは無関係

ケシが原料でできている薬物の法律用の総称だ。

法律用語を利用し、マスゴミや広 告 業 界を活用しG H Q→C|Aが
日*合同委員会などの指示を通じ、

国民の認識が、最も有用な植物 と、大変危険な薬 物
認識を混乱させるプロパガンダを垂れ流してきたのだろう。

 

 

しつこく念を押すが、大 麻と麻 薬は、
薬効のみならず、用途も目的も、全く違うもの。


人類に不可欠の大 麻「オオ ヌサ」を特に、日本で規制したいがための、
G H Q 由来の〜〜えげつない〜〜プロパガンダを

現 代 日本人は、改めて認識するべきだ。

現代は平等に見せかけた支配社会。

 

オオヌサ・大 麻は、

日 本 人がひとりひとり自ら真実・真相に気付くことを待っているかのようだ。

つまり、地球を…自然を…浄化することに繋がっている。

そして、真の平等社会に向う道標の大切な資源なのだ。

 

 

 

マスゴ ミは‘薬物・毒物’という認識で一緒クタになるよう、
事あるごとに、“一緒クタ プロパガンダ”を繰り広げている。
石油が不要にできる、偉大な植物 「大 麻」に気付かれぬように。

そのプロパガンダは、欧 州勢的な常識・センスによる、

他者(薬物の罠に嵌まる者)を

配下のマスゴミで、面白可笑しく血祭りに掲げ、
大衆の鬱憤、野次馬根性を悪用・常用する。


真相を見破ることのできない、
おめでたき日 本 人がどれほど、不利益かつ自 縛 呪 縛にしていることか…。

 

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オ オ ヌ サに関する書籍より

 

昭和28年に‘麻 薬’取 締 法が制定されるにあたって、
当時の厚生省の役人が
「ナーコ  ティック・ナ ルコ  ティクス」という
ケ シ由来の薬剤(ア ヘ ン/モ ル ヒ ネ等)を単語の翻訳に、
“ 「麻」薬 ”という漢字を当てはめ使ってしまったそうだ。


(G H Q介入の意図という気もするが……)
 ↑↑↑↑↑↑↑↑
日本にしたら、小五月蝿い姑?小姑?のような 進 駐だったと思う。(笑)

 

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当時の厚 生 省の役人が、中 国語を参考にした熟語の造語だろうか?

(「麻」の漢字を使った中 国 料理名が思い出される。
強烈な香味風味に「マー」を当てはめる熟語がある。
イラ クサ(蕁 麻)…蕁 麻疹(じんましん)。麻 痺と呼称するのも
植物が元々持つ揮発性の薬効(植物自身の免疫)か。
イラ クサなどは触るとヒリヒリしてイライラするところからなのかナ。
「麻」と言う漢字は、植物のみならず植物の性質から生活に
 取入れた熟語が色々ある。)

 


偽ユダ配下のマスゴミ。

新聞や週刊誌の印刷物の文字見出し。

TVニュース・ワイドショーで一定期間、連呼する薬物違反者騒動。

視覚聴覚の直感的な、大衆への波及性に、
「麻」と言う文字の呪縛をG H Qは考慮しての、
大 麻と麻 薬の、大衆の誤謬を誘導する、毎度おなじみの

。。。やり方  。。。

 

 

 

 

 

 

 

油  10…(5)

 

 

日本を目に見えること(カネ・物質への過度な依存生活)と、
目には見えないこと(国・民族の精神性や伝統生活の破壊)の両面で、
自在に制御できるよう敗戦させた日本に対し戦後、偽ユダが満を持して、
‘石油’に託したことだろう。

開国以降の内戦をはじめ、欧州勢のシナリオ、
日清日露 戦争、第一次 大戦、日中、大 東亜戦争は
日本の思いがけない正義で攪乱された局面も多かっただろうから。

 

 

キリスト教伝道を装う日本侵略奴隷支配の野望、
欧州以外の文明の瓦解・奪取の戦略。
戦国社会となった最大の要因でもあった。
それは江戸初期の数十年の国防政策を経て、
そのお陰で一旦、日本への被害は収束したのだった。

 

イエズス 会・中世の謀略の真相、
世界中の有色人種への迫害、各大陸の収奪は
現代にも色濃く負の足跡を残す。
日本でも1590年代頃の被害では、何万〜二十万人とも言われている。
が、未だ、現 代日本人が無自覚、無知の史実である。
いや、江戸後期〜明治期に封印され、
戦後に完全忘却を強いられた…。(焚 書などで)

 

中世に西洋や東南アジアへ…。欧州人と戦国武将らの取引は、
“輸入火薬ひと樽=五十人”という条件のもと、
幼女・少年少女・青年らは、二束三文で売買されていった。(最大推計は人口5%)

茶道は誉れ高き日本文化としているが、
現代で崇められる茶道に縁のある歴史人物らの詳細を知ると、
南蛮奴 隷貿易の商談・仲介のために茶道・茶室を利用していたことが充分推察できる。

信長から政治に茶 の 湯を取入れた。秀吉は戦国社会を早く終焉させ平和な世、
豊かな生活文化を目指し民衆に娯楽としての茶 の 湯・陽気な喫茶の習慣を
広げようとするも、頓挫した。(f家らにさせられたと推察)
そしてまるで異質の、選民のための宗教的で厳格な、現代に続く茶道がある。
現代の常識・学説の多くが欺瞞で、この件さえもである。

 

日本の伝統文化として崇高に印象づけられている茶道の世界。
確か明日公開の「日日 是好日」という映画も、何故この時期に
大衆向け茶道・そのテーマなのか。
鑑賞するならば、中世ユダキリ教と縁を深くし、
現代に至る茶道の史実の闇を認識し、
どんなプロ パガン ダかという見方は必要だろう。
人工的な感動は、時に要注意である。

 

中世に欧州や東南アジアへ大勢の日本人が売られていった
日本人奴隷の事実は、現代でほとんど知らされることはない。
そして欧州人から、悲惨極まりない扱いだったことも。

 

加害側であった切支丹らが、
江戸期には国防のための断罪に対し焦点を当てるプロパガンダは、
その彼らを被害的立場として現代では真逆に解釈させる。
真逆の解釈が常識としてまかり通っている。

隠れ切支丹の暗躍の江戸期を経て、
近代、現 代社会での、欧州勢支配の手法を観察して、
やっとこさ、汚染脳の輪郭が見えてくる。

史実の隠蔽は根深いものがあるが、これも通過点に過ぎない。

人類の有史に限っても、史実は少なくとも約500年〜2000年、
偽ユダ主導で、ねじ曲げられ続けている、と思う。

「そうかもしれない…」、程度の知識しかワタシにはないが、
K氏説では更には数万年、恐竜の存在した時期さえも捏造されていることを
聞いている。人類史、人間の大きさや人種、古代の地球…、
現代の学説の多くは嘘、と。


歴史狂育もまた時代の節目ごとに
学説が変えられるだろう。
時代の支配都合であらゆる常識が枠組みされる。
学校狂育で学んだ共通認識を信じることも、所詮、一過的な盲信である。

“為政者のための歴史”と言われるが、各時代に為政者が現れたように
伝えられていること自体が概ね、嘘なのだ。
現代で流布する歴史狂育に至る捏造史を一貫して唱え続けるのは、
つまり偽ユダ貴族やF家…。黒幕に君臨しているであろう、と。

 

 

 

 

油  10…(4)

 

 

若い頃から、気付いた道端のゴミを拾い持ち帰って処分することを
続けているが。( ゴミ屋敷ではないゾ。笑 )

先日、呆れてしまったのは、多国籍企業製品のゴミだった。

数百メートルの道路区間の真ん中に、捨てられていたそれを
随時拾って、改めて見たら、
Cカコーラ缶・Mドナルド包み紙・Sバックスのプラカップ。(呆)

それを嗜好する人間の感覚が壊れているのか。手軽さがそうさせるのか。
はたまた、捨てろ捨てろ呪詛(笑)でもかかっているんじゃなかろカッ?と
思う程、道端に堂々と落っこちていたのであった。


ゴミは自治体が集めるも、乱雑に焼却、あるいは広大な土地に
ただ埋めるだけ。土壌は悉く汚染される。
また、ポイ捨てされた石油製品は、やがて川や海に至り、
あるいは土壌を汚染し、焼却は化学物質を空気中に飛散し
陸上生物の被害はもちろんのこと。
鳥類や海洋生物が餌と間違ってプラスチック製品の
廃棄物破片を食べ 、生物の死亡が頻発しているという。
鳥や海洋生物の死骸の内臓から、
プラスチックの破片が確認されることもある。
最近では目に見えなマイクロプラスチックも
生体に蓄積されている魚介が多く、
私たちはそれを知らぬ間に食しているという。
あらゆる企業の石油化学製品によって地上で汚染された物質は、
海溝に集まり堆積していると言われる。
地球全体の汚染はたった約150年で取り返しの
つかない状態になっている。深海魚が度々打ち上げられる話題も、
本当は、海溝の深刻な環境汚染が原因ではないのか。

 

企業で石油製品を製造し生活費を稼ぐ人間らワレワレが、
自然環境を破壊して、
日々の食で、汚染された魚介や肉や野菜でお腹をいっぱいにしている。
昔の人たちが無償で美味しく安心な魚介を食していたことを思うと
何と馬鹿らしい世界になってしまったのだろうか、と。
そして現代では放 射能汚染も加わり、一般人は原因不明の病気が
増え続け病院に世話になって、そこで集められる利益は
権力権威の組織が吸い上げ続ける。

偽ユダの遂行してきた現代ゾンビ社会の構図。
支離滅裂の極みである。

 

ちなみに、
(偽)ユダ教徒は大変に食生活を気遣い、
血眼になってオーガニック食材を確保し、
安全で素晴しく健康的な食生活を励行しているという。


現代は自然志向ほど、お金がかかって贅沢なことになってしまった。
自然の恩恵を受けるのは、カネ持ちだけが享受するという世界。

 

戦後しばらくまでの日本は、
経済に余裕にある家庭の贅沢な食事に比べて、
貧しい家庭の方が、
安価な青魚や大豆の発酵等の食品(味噌豆腐納豆)や
野菜・漬物など素朴な食卓になり、
かえって、健康的で頭の発育にも良い食事だった。と、
東城百合子氏の言説から、なるほどと思った。

 

それは人生の逆転劇のようで、日本に平等さがあった偶然の産物。
ところが、最近は経済的に厳しい家庭が、
冷凍やインスタント・コンビニ食品…ファーストフード、安価な外食、
遺伝子組換えや化学物質たっぷりの身体、頭の発育に悪影響の食を
摂取する傾向にある。
昔から平等感を尊んで来た日本に、昨今じわじわと格差社会
広がっている要因のひとつと言えそうだ。

 

 

 

宇宙の理と真逆になっている気がする現代の日本。

昨今の人間社会の掟では優秀らしい人間・家系が生き残りを。
その他は人口削減のターゲットだから致し方ないか。
選民サマ、ご勝手にどうぞ。(苦笑)

 

 

 

 

油  10…(3)


 


話は戻し。

現 代日本は、石油由来の物質だらけになった。

繰り返すが、

あらゆる日用品雑貨、電力や各種資源エネルギー、
建築物の内外装、家具家電、衣類、包装、薬品食品加工、
農業用製品、工業製品、その加工・新素材、
諸々すべてに。

「便利になった・効率的・合理性・経済発展」という文言は、
偽ユダの存在を日本人に意識させないための
喧伝の呪文にしか、ワタシには聞こえない。

国際金融家が貨幣価値を維持し、欧州貴族・宗教者勢が、
富と立場・地位を死守するのに、
石油をはじめ地球の資源全体を掌握している実態。
およそ中世から…。

 

資源のみならず。

意識、見えない世界までも制御できるよう、

序列をつけ、人口も物質の如きに、

秘密裏に削減を施行する陰険さ。

 

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この十年くらいで、
ホームセンター、ドラッグストア、
コンビニ、食品スーパー、100均店、駐車場完備チェーン飲食店…。

まるで、石油・資源エネルギーを使わせるため、地球を摩耗させるための、
製造・製品を販売する店舗・利用店、そうした経済活動が激増した。
大型店舗のどこに入っても、異様な石油臭や人工的芳香がする。

個人の小売 店・個人業者はどうなったか。
人と物との対話、人の心が繋ぐ経済活動は激減した。


ただひたすら、企業の目的は、結果を・カネを・利益を追い求める。
個人は、物質を手に入れること、安価に・便利に・迅速に・
大量に、優位性や見栄え…が、目的となった。
本物・本質や愛着、真心や礼節など、どうでもいい代物と化してしまった。

企業側売り手は、労働賃金の安い国に生 産現場を丸投げ。

地球資源はぞんざいに扱われ、大半の物作りは、
カネをかき集めるだけの処理と化している。
物作りに真心を込める場は、極少数の経済活動になった。
(偽ユダはそこをまた利用するあざとさがあるから…。呆)

手作りに戻ること。
カネでは買えない物作り、
カネがあっても人を動かせない利用できない世界は、
人間の意識の進化もたらすように思う。


世紀末的な現代は、虚飾が席巻し、
生活は工業製品の使い捨て物質だらけ。
人間の精神活動、文化はない、いらなくなった…という有り様。
知恵の育たない、肉体が劣化する世界。
脳の偏った使い方だけが研ぎすまされ
計 算高い 利 己主義だけが都合良いカネ礼賛の世界。

 

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あらゆる企業営利から個人の生活に至るまで、
自然破壊を前提としてしか存在し得ない。


石油が無尽蔵に採掘できようが、枯渇しようが、石油を使用しない。

もちろん放 射性 物質はもってのほか、
地下資源の利用は最小限に留め
自然を破壊しない、空気・水を汚さない…。

 

地球に人間が住み続けるのに、最も当たり前のたしなみを私たちは
忘れたのか、もともと知らないのか…。

石炭、石油…というエネルギーを手に入れた
産業革 命以降の、国家行政・民間事業は、
自然の掟をとことん無視するようにして、経済の仕組みが作られていった。
(元地球人ご所望の地球帰還のトンデモ説を信じたくもなる。)

 

現 代人が、地球の環境汚染(水・空気・大地の汚染、他生物激減)の果てに
火 星に移住という発想。
石油製品の器よろしく、懲りもせず、天体さえも使い捨てなのか。
ちゃんちゃらおかしい。


****************

 

この地球で人間は、主役ではない。

そんな当然のことが、未だ分からない人類のワレワレ。
すべての生物にとって、縁の下の力持ちであることを
自覚するまで、いつまでお馬鹿な失敗を繰返すのか。

 

今回の地球文明(K氏説によれば4回目らしい…^^)は、
ユダキリ教的言説で、
世界中の人間の思考回路が冒された、
人間中 心主義の成れの果ては自 己愛(ナル シスト)病。
(美容、ダイエット、整形、虚栄を満たすこだわり過ぎ生活感・ファッション、
 見せるためのあらゆるカネをかき集めるメ ディア…
 すべて地球の消耗・破壊・人体劣化を促す経済活動だ。)

 

 

目には見えない心遣いの美しさや、見せない美意識、
言わない気高さが人間に失われつつある。

自己愛(利己)・自己顕示欲で見せるため過剰に綺麗さに執着する心の醜さ、
保身のために言わない自 己欺瞞や冷酷。

(言わなくてもいいこと、 
 書かなくてもいいことをぶちまけるワタシは、おバカさんダが。笑)

 

***************

 


一応、国家や企業もそれなりに環境改善に、
太 陽光発電や植林やゴミ分別を推進…?か。

 

いやいや、こうした行政や事業は、ガス抜きに過ぎない。
マスゴ ミと御用学者を使えば、キレイ事言説はいくらでも流布できる。

所詮は、G HQ 置き土産の日*合同委員会のポチである在 日出身筋…
官僚・政治家・御用学者らの、名誉権威資産保守のための胸算用。
その元凶は、国際金融家、多 国籍企業、欧州勢貴族…の、富・ヒエラルキーの維持。

偽ユダやf家に手も足も縛られている日本に比べれば、
ポチ(偽ユダ側の政治家官僚資本家御用学者工作要員ら)の方が、
まだマシ。…トホホ。


太 陽光パネルは十数年後、大量の手に負えない産 業廃棄物になるという。
かつ、空地を利用した投資用太 陽光パネルは土壌を劣化させている。

一般市民に煩雑なゴミ分別をさせても
結局、何の方策も取らず焼却処分している石油製品。
分別した分だけ生ゴ ミ率が増え、石 油燃料を足しているという。

均質な樹木を植林したところで、多様な植物動物虫の住処を奪うだけ。
生態系破壊である。まずは、鳥や動物や虫の食性を取り戻さなければ、
豊かな山は育まれない、その自然循環の認識が、現代人には皆無。

 


ジ ビ エとか言って猪や鹿を多くの人間が食べるようになり、
ますます野生動物を激減させている。
本当に馬鹿が増えたと思う。
生態系破壊の発端は、人間の安全が最優先となるユダキリ教的な人間中 心主義。
生態系・自然の摂理を遵守してきた民族の排他。

 

八百万神として民族それぞれが、対等に関わって来た生物たち。

 

日本狼が絶滅に至ったのは森林伐採で生息環境が
失われたり狂犬病の影響等だったという。
環境破壊で森の食べ物が激減し里に来る熊を危険だと騒ぐ。
同様に営利目的の田畑に現れた猿や猪に怒り殺し、野犬を排除し…。
目に見えないウイル スの過剰な恐怖喧伝・やり過ぎの衛生管理…。

人間以外の食物 連鎖での肉食獣がいなくなったから、鹿や猪が
増え過ぎて、森林崩壊が起きてしまった。森を取り戻すには、
まず鳥を増やすことなのに、はたまた鳥イ ンフルエンザと騒ぎ、
更なる、生 態系破壊を促す偽ユダの恐るべき戦略。

 


狂育・マ スゴミや行政・経済の表側の刷込みによる、
人間生活圏の安全確保、人間寿命への執着とは裏腹に、
体制側の人口削減の秘密裏の意図は、
個人ひとりひとりの精神を混乱させ、自然を根幹から破壊し、
それさえもカネを巡らせ富の収奪に…。ご利用は---計画的だ。w


自然界で他生物と対等に、あるいは愛でて知恵を培って来た
先祖からの伝承や学びは、カネ支配目的の政治に抹消された。
ユダキリ的偽善が、観念的な生き方・病的な人生を増やし続けている。

 

地球生 態系の根幹を破壊する、
人 間中心主義の、不気味さを思う。
ル ネッサンスという意味が、
中世でプ ロパガンダであったろう。が、
現代の時点から説明されるル ネッサンスは、
強固な汚染脳ワードのひとつだ。
プ ロパガンダの二乗と化している。(苦笑)


*************


 
今や、日本は都市も田園も山野と、そこら中に、
‘企業の石油製品’のゴミゴミゴミだらけ。

更に、複雑にして大地、水、空気を汚し、
生物を激減させる経 済活動の悪業。

喧伝による人間寿命への執着が、医療の暴利をも促す。
矛盾し過ぎて、混乱しているにも関わらず、
なんでもかんでもカネで解決できる、と思い込んでいる
人類の常識のアホらしさ。

 

**************


国 際金融家が持ち株の多 国籍企業、大企業が作り出す製 品ゴミは、
利益は集めても各企業が責任を持って回収することはない。
売りっぱなし。
マスゴ ミの情報垂れ流しっぱなしと同様だ。

数年前、ロス 茶の御曹司がペ ットボトルで筏を作り航海だのの
冒険のトピックには、失笑した。
ごく小さな話題だったが記憶に残る茶番、ここに極まれり、と。

 

 

 

 

 

親とは…(1)

 

 

ふと今日気付いたことを書き留めたく。

 

親とは…空気や水と同じなんだなぁ、と。

空気や水が存在しなければ、人間も

存在できないのと同じで、

親がいなければ、ワタシは存在しないことを

思った。

 

あまりにも、基本的で当たり前の、

無意識なこと。___存在。

 

 

良し悪しとか、幸福とか不幸とか、

幸運とか不運の物差し以前の、

基本に感謝なんだぁ…と思った次第。

 

(禍福は糾える縄の如し・人間万事塞翁馬…は、摂理。

 選り好みがエゴのはじまり。そこが汚染脳になる隙だなぁ。。。)

 

 

 

よく口にする、夫婦で空気のような存在という言葉は、

親にも当てはまる。

いや、ワタシの宇宙の始まりを頂く存在だから、

もっと根源的に全肯定なんだなぁ…。

様々な親への感情は、それぞれ、

育つ(素立つ)為の、

関係性や環境・条件というのはオプション(おまけ)。

 

そして、己も空気や水に成らんと…ス。

 

  

 

 

 

 

油  10…(2)


 

 “日本を石油漬けにする。

日本では世界一石油を消耗消費させる。

日本には石油を軸にした経済活動をさせ、

貨幣価値を保たせ、生み出された利益・富は、

すべからく偽ユダへ向っていくように仕組む。

それはもちろん「偽ユダ資本」の輸入石油で。”

 

日本の自然や日本人の健康など、

偽ユダらは知ったこっちゃない。

むしろ疲弊しろ、と言わんばかりだ。

 

(巡り巡って己に戻ることをカバラなる呪詛で、

 ヤツラハ消去している…つもりかナ…!?

 


************************

 

しつこく書くが、
K氏説から紐解くと、日本は人口削減のターゲットであるようで。
それには、有史以前からの非常に根深い理由がある、と思われる。
かつ、535年以来、半島系の裏支配も複雑に絡み合っている模様。

その起源の隠蔽(535年)に於いては、
江戸時代にも隠蔽の政治的圧力の出来事があったことを某ブログで知ったり、
古事記日本書紀・神社の系譜や倭人について調べると片鱗が見てとれる。

明治以降はマス ゴミの絶大な威力(大量な映像や言説)を駆使するのは、
明治〜戦前と言わず戦後以降、今も尚、と思う。
(戦前戦後しばらくは、史実・真実を伝えようとする
一般書籍もあったようだが、現在では皆無。)

 

K氏説の史実であろうことを重ねると。
有史以来と称し、GHQ指導基盤の捏造歴史を
現代の御用学者が、現時点の視野(喧伝用言説)から
過去に向って説明し唱える歴史狂育が、
私たち一般人に、史実、真実に気付くこと知ること、
受入れることをいっそう、できなくさせている。


捏造の歴史狂育は時代を経る程に、尾ひれはひれが付いて、
史実は歪まされ、肝心なところはますます省かれていく。
物的証拠さえも、
事故・天災・火災・戦渦やテロ・事件で
偶発に見せる意図で破壊したり、
巨大工事で遺跡等を消し去ることもある、と思う。

 

(水道民営化の喧伝のために人工台風や人工地震で、
 水道管破裂も工作員による毎度の細工かいな?、と。
 今回の台風や地震で水道に問題がある風な
 マスゴミ映像報道を何度も取上げていた。
 こうして、トラブルに見せかけ徐々に民意のように
 仕込んで水道公共事業をまたしても、
 民営化(∫P、∫R、doc◯m○など、)へと
 世論を作り上げ肯定させるご予定なのだろう。
 工作と報道の連携など朝飯前…。それと似た手法ダ。)

 


******

 

 

史実・真実であろうその説から思うのは、
平等と差別についての倫理観、
あるいは生命観を根幹から変える視点、その模索が、
ワレワレニ必要デハナイカ、と。

 

明治以降、ドっと押し寄せたユダキリ教の、
観念的な博愛や魂の救済の宗教観が日本を席巻・浸食した。


超古代からの倭人にとっての八百万神への精神性。
その余韻は、まだあった江戸期。
神 道や仏教、茶道・華道・……道、

(江戸期の価値観を打ち消すようにして

歌舞伎や浄瑠璃の物語さえ明治以降に改変されているようだ。)


それらも、引きずられるようにして、
1868年以降、ユダキリ教の影響を受け、新興宗教も含め、
日 本人の精神構造は、大きく歪まされたと思う。

 


現 代日本人の思考は、事実・史実・真実・生死・命を
直視することをできなくなった、否、させられた。

 

ユダキリ教的な厳格な善悪の基準が、
人間同士を裁き憎しみを増やした。
性を罪とする抑圧が人間の意識、社会全体を歪に変容させた。
世紀末や救世主を謳い、魂にヒ工ラルキーを作った。
愛とカネが偽善を作り、真実を視なくなった。
世の中の善悪、貧富の落差、光と陰…を極端にしたように思う。

 

ユダキリ教‘的’という表現は、キリスト教を背後からヤツラが
制御しているであろうことを前提に、信者ではない“信者擬き”が
日本に多いことを指す。キリスト教系学校各種団体や、
クリスマスや結婚式などのイベントゴッコ、小説映画ドラマや書籍なども
旧約聖書の聞きかじり知識を増やさせた。

 

その擬きが、特に目には見えない問題を複雑にしていると思う。
他者や自身を外的ルールで束縛し、懲罰の思考となる。
人間関係がこじれやすく、人が、社会が荒れる。
それを許せ、と無理難題の教義の聞きかじり。
白紙の境地で浮ぶ内なる疑問を封印し、
信じることだと説明すれば信者も増やせるだろう。
擬き信仰の皮膜に覆われた、今の日 本 人の思考は、
自問自答や疑問を持つこと自体を恐れる。(不思議な現象だ)
自己欺瞞・偽善を増やし易い方策(擬き信者の増産)を編み出した訳だ。
汚染脳を育てる土壌は、ユダキリ宗教観(人工的宗教)の表面的な認識である、と。

 

 

史実・真実、生死・命を直視すること。
自分に嘘をつかない楽天的な生き様。

内なる声、感情を過度に抑圧しない、今を生きる、生物らしさ。
昔の人の素朴で率直な有り様を
明治以降の政策・教育・マスコミ・宗教観…、
外側の規則・常識が悉くそれを失わせていった。

 

狂育は、他者から信用を得るがため自分を騙す思考癖を付けさせた。
マスゴミは、私たち一般人が、
史実・真実、生死・命を直視することについて、
奇妙な、暗黙のタブーになる役割を担っている。

 


未だ、意図的に深い闇に包まれた真実の人類史。
(だからこその、人口削減なのであるが…。)

知らぬが仏でいいか、否か。
本質を見なくなった社会常識・汚染脳の
隙間を縫って、裏支配がある。


いち個人のワタシが考え嘆いても仕方がないことをつい煩悶してしまう。
なぜなら身近な風景、生物は、荒廃し続けている。
大きくは地球環境・生物危機・人間の意識の軽薄化を思う時、
史実・真実をすべての人が直視し、知らなくてはならない気がするから。


ユダキリ教の観念的な宗教思考が日本全体を覆ってしまった。

日常生活で、身近な空間で、
他生物を感じ、見つめ、観察し、自身を知る。
真実を体得する場としての自然環境が、いっそう失われている。

現 代 日本の現況、
現 代日本人の奇妙な常識、思考停止、汚染脳状態が、そら恐ろしい。
未だ若者のような感傷にワタシは襲われる。

 

貨幣を激しく巡らせ、大きく育った利益・富はヤツラに向う仕組みの、
輸出入を大奨励。
遠い国の多種多様の資源を枯渇させ、水・空気や大地を汚染、破壊しながらの、
身近な自然排除と増え続ける人工空間・人工物質の消費が、如何にも虚しい。

 

知識が浅いワタシが分かったようなことを
伝える立場の者ではないし、ぼやきに過ぎないことは、
自覚しているつもりだが…。

 

 

 

 

 

油  10…(1)

この記事をブログに載せるか迷い
しばらく更新できず。
(またもや同じようなことだが、
 長文でダラダラ書いてしまったから数回に分けて掲載)
 

 

しつこいヨゴレは…の、古い洗剤CMキャッチコピーではないが、
油に関して、もうチョイと…記そうッと。
石油についての雑感だ。


 
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石油が無かったら、科学技術の発展は無かった、
便利な現 代社会が築けなかった。
その恩恵は…、みたいな話は、闇のご都合を知る程に、
嘘っぱちだったんだろうなぁ、と常々思う。

 

「日本に資源がない=石油がない…」という、
文言・言説も、狂育やマス ゴミで刷込まれた訳で。

第二 次世界大戦 時の経済封 鎖は、西洋化へ邁進する
日本に於いて 致命的だったのだろう。
石油が(‘通常ルート’では)輸入できなくなった、
開戦のひとつの動機の上塗りに、敗戦後の自 虐的な世論誘導、
「日本に資源がない」という喧伝が成立った、と言える。

 

***************

 
 毎度子どもの頃の記憶のことで稚拙な発言だが。
戦後30年頃の学校や社会で、大人たちが言う常識としての
「日本に資源がない=石油がない…」という文言を
聞くにつけ、ワタシは疑問だった。
大昔から人は石油を使わなくても生きて来たのに…、と思っていた。

 
自動車等の動力や発電のエネルギーをはじめ、
ポリバケツや洗面器、ビニル袋やら化繊の服、家電、食品包装、
洗剤、日用雑貨品、建物資材、あらゆる設備、
食品、薬品に至るまで…。

生活全体をとりまく石油由来や依存の製品等で、
いつの間にか皆が当たり前に
湯水の如く、利用するようになったけれども。

 

身の回りにどんどん増えていく、
石油由来の化学物質のカタマリは、
子どもの肌感覚として奇妙に感じられた。

 

木でできた桶やおもちゃ、衣類、特に絹製品、
木造の建物など、生活から次第に「素材」「本物さ」が
失われていく中で、天然素材への憧れは、
より強くなっていった記憶がある。
人工技術で加工され過ぎた石油製品・工業製品はワタシにとって、
今でも、偽物・仮物・陳腐という印象は、決して拭えない。

 

天然素材を日用品や建築・インテリアに取入れた生活風景。
旅行で大 自然を満喫という体験。
あるいはそれらのイメージ、画像映像、その情報や雑誌等で、
昨今の日本人の多くが惹かれたり興味を持つのも、
深層心理では、自然さを望んでいるからに違いない。

身近な風景、生活から自然や生物が排除され続けている。
カネをかけた消費生活、非日常空間にカネを使い足を運ばなければ、
大勢の人が豊かな自然環境を味わえなくなった、
触れることができなくなったのは、
支配層のカネを巡らせ続けたいがための戦略とも言える。

日本人はマス コミや教育の喧伝文言に
そそのかされ、西洋礼賛の汚染脳状態となった。
皮肉にも青い鳥の話が思い浮かぶ。
特別さ、便利さやハレばかりを有難がる。
幻想の愛や夢、妄想の幸福や成功、偽善、キレイ事を前向きと言う。
見えること、好結果、収穫、利益…、
自分以外の評価基準にアイデン ティティを見出し、
見られることに執着するようになってしまった。

物質偏重ゆえ他者との比較の中で、それらを追い求め続ける。

西 洋的思考習慣の、見せること見られることばかりに
気を取られてしまう日本人が増えたと思う。
現 代日本人が、西洋礼賛になっている所以は
カネと物質が牽引している。逆も然り。

 

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戦前までは、都市でも自然の美しさはあった、と
親や祖父母世代から聞いている。

 

第二 次世界大 戦の激しい空襲で、焦土と化した都市部では、在 日系の人達が
終 戦直後どさくさに紛れ無断で土地を収奪していったことが、
戦後以降、凄まじい都市化に向わせたことを
最近読んだ本に少々書かれており、合点がいった。

いつの時代も、主に戦乱がきっかけで移民になってしまう人たちがいる。
移民者は命を守るのと引換えに、縁のない土地へ移り、
経済苦や、よそ者扱いの差別的苦労は、
移民先の国や国民に対し複雑な心理をもたらす。

移民者は、人生に対し覚悟や反骨精神を旨に社会的成功者に登り詰めても、
その多くは、経済苦がバネになるが故の、カネ権威権力の亡者と化す。

やがては偽ユダに取り込まれる。アイデン ティティの曖昧さゆえか、
母国 愛とは逆の、利己的な事業・支配的な役職、工作的な要員などで、
旅の恥はかき捨てよろしく、日本のみならず社会全体が、
荒れる要因のひとつとなってきた、とワタシは観察する。


(ちなみに白 人社会の移民・亡命者が一旗揚げた美談・偉人伝は多い。
 日本に於いて広く知れ渡った人物は、ほとんどアユケ ナージュではないカナ…。
 それもマスコミや教育で刷込む偽ユダイメー ジ戦略のひとつ、と思う。)


中世・大航海の時代を主な発端として、
長年に渡り、欧 州偽ユダ支 配層が世界で最も多くの移民(主に有 色人種)を
発生させる原因、戦乱や奴隷売買や資源収奪を繰返して来た。

日本に於いても在 日系を始め、戦乱や経済貧困の時代にも、移民の流 入出があった。
古代にも朝 鮮半島から日本への移民流 入はあったが、現 代の歴 史教育では、
ほとんど説明されることはない。
日本人=単ー民族という偽言説がまかり通っている。


現状の支配層(F 家・天 皇 家・偽ユ ダ)の教育やマス コミを利用した隠蔽、
・起源の 隠蔽(535年)
・宗教思想政治の根本を隠蔽(1549年〜約50年)
・政治・主権の隠 蔽(1868年)
・隠蔽しつつの日本破壊目的の欧 州US A勢による汚染脳(1945年)
を続ける。
ルーツを隠蔽するために、

内外の脅し・駆引き・圧力(マ スゴミをフル活用しての)が、
日本社会を複雑に重苦しいものに、し続けている、と推察する。


倭 人を抹殺したい超太古の勢力(元 ユ ダ・逃避元地球人)の存在…。

 

*****************

 

都市部の風景は、自然を切り捨て、マス ゴミが導引する、
情緒の無い、美意識皆無のカネの亡者が席巻する、
ギラギラのカネ儲け広 告の空間に成り下がった。
生活の便利さとインフラ投資バラマキ経済という、
プ ロパガン ダも、国民の血 税で日本の都市部の風景を地に落としていった。
身近な風景、特に都市部は殺伐とした景色へ変貌し、大気の汚染、
汚れた水環境へと悪化したのだ。

都市の凄まじい消費 消耗・摩耗 マ痺の生活を冷静に観ると、
それが、人間全体の心身の成長・成熟、精神衛生に、

すべての生物に、命に、地球に、如何に残念無念なことか…。

 


美しい水辺にしか暮らせない魚や虫(たとえば鮎や蛍…)を
大都市地域の河川でもいた時代があったことを
今の高齢者しか知らないのは、とても哀しい。
いずれ、その記憶も消えてしまう現状なのだ。

 

 

******************


 

お金や石 油よりも、

美しい水、自然の豊かさの方がよほど大切なのに…。

 

親の世代まで泳げていたと聞く川が、石油による経済発展で、
工場や家庭の排水汚染を促し、私の世代では既に身近な川では
泳げなくなったどころか、危険な水、悪臭を放つ川になっていたことが、
心底、嘆かわしかった。

元来あった日本の水の豊かさ美しさを
大人は、なぜ軽んじて、工業排 水などで、
川や海を汚し続けるのだろうか…と。

 


石油が採掘できない=資源がない…は、
ホントかな?!何だか胡散臭い言葉だな…、と
小学生頃から、ずっとずっと頭の片隅で思っていた。

便利さ・効率・合理性・営利目的・利益追求、
損得勘定の代償は、生命にとって負の循環を作る。

輸 入石油をふんだんに使う社会に移行するにしたがい、
貨幣が絶対条件、必要不可欠となった。
営利目的・利潤追求は地球・生物・人体…
全てを犠牲にしてでも、是とする価値観へと
日本社会は変貌してしまった。

 

それは肉体や知恵・直感をますます使わなくさせ、
便利という言葉にかこつけて現 代日本人の大半は、
いっそう怠惰になっている。
欲望と気力が拮抗し、脳を酷使し
精神が枯れかかったような
病的な怠惰さのようにも感じる。

 

昔の日本人が持っていた知恵深さ、献身、眼力、
自然に対する感性や感情の温かさ濃やかさを
明らかに失っている。

結果、自然の破壊 … 人体の劣化 … 精神の退化 を招いている。
異常な事態に気付いて、取り戻そうとする動きもあろうか。
それもひとつの、二極 化に見て取れるのかもしれない、と思う。


 

 

 

 

 

ワタシの中のイケめん___。(w)

 

 

他人にとってはどうでもいい、ワタシの中の「麺論」。

 

 

人類は、麺の魅力にいつから、取り憑かれたのか…。

ちゅうごく四千年の_なのカ?(4000年前??___コピー古ッ過ギw)

穀類と言えば、お米か小麦が代表的で、ほか

稗とか粟とか大麦や蕎麦とか…。

穀物の歴史、遺伝子組替に近い小麦類、

 その是非は横に置いておいて…。。。ご都合主義ダナ・汗)

 

 

ともかく。

 ワタシは子供の頃、ラーメンがあまり好きではなかった。

みんなが好きという空気が、いまひとつ分らなかった。

 

当時、母が嬉しそうに「今日の夕食はラーメンよ〜」という日は、

心の中で、(嗚呼、また食べなきゃいけないんだ…)というくらい

テンションが下がった。

家族が多かったワタシのうちでは、母が腕を振るって祖母も手伝い、

一応、鶏ガラでスープから仕込んでいたラーメン。

母は、台所でかなり大変そうだったことが思い出される。

 

よって、楽しみではないワタシの感情など、決して言葉にはできなかった。

両親、祖父母、姉弟は、食卓に並んだラーメンを嬉々として

夢中ですする。

そんな雰囲気の中で、ワタシだけが心の中で、

好きではない、むしろ食べることが苦痛なことを

決して口にできない、

みんなが大好きなラーメン。

 

その理由は自分でも分かっていた。…熱いから。

自分が食べられる温度になる頃には、

スープをたんまり含んだ麺は、ぶにょぶにょで

伸びているから。

最も美味しい瞬間を経験できないのであった。

 

幼児の頃、熱いから苦手ということはままあると思うのだ。

かといって、食べる事自体が、

本当は、ひそかに面倒臭いと、思っていたフシもある。

哀しいかな、飽食時代に差し掛かった子供の病理だったのだろうか。

特に好きでもないお菓子を間食し、食前には空腹に至らず

食事は義務という、子供の頃に有りがちな

悪習もあったかもしれない。

 

 

 

 

そうは言っても、大人になってからは、

突然、特に深夜に、ラーメンが食べたくなることもある。

だがやはり、伸びて嫌々食べていた頃の記憶があるから、

そんなに好物にはならない。今でも毎日なんてことは、考えられない。

 

食べたくなるその時は、漠然とラーメンを所望するのではなく。

イメージというか、経験的記憶からか、

どこのとか、どんなとか。

具体的にそれじゃなきゃイヤだ、という

わがままな欲望が襲ってくるから、

結構、自分としては困ることがある。

一体、その欲望はなんなのか…。

 

 

***************

 

 

家族がラーメン好きだったのは、ごく一般的なこと。

世間を見渡せば、ラーメンが嫌いという人を捜すのが

難しい程、ラーメン教とも言うべき宗教的空気が

日本を覆っている。

まあ、どうでもいいんだが。

 

 

しかし、麺類が嫌いな訳ではない。

ワタシが麺の美味しさに目覚めたのは、コシのあるうどんだった。

その後、スパゲッティも美味しいんだ、と気付いたのは、

20代後半くらいから。

かなり遅い麺党デビュー?なのであった。

 

ちなみに、冷麦も子供の頃、食べるのが憂鬱だった。

やはり、ぶにょぶにょして面倒臭い食べ物という印象しか

なかった。どちらかと言えば、

素麺の方が、見た目も涼やかで喉越しが心地よく好きだった。

けれども、ワタシの実家は冷麦派で、夏に素麺を食べられることは

めったに無かった。むしろ、素麺を避けていた。

 

もうこの歳になれば、熱かろうが、ぶにょぶにょだろうが、

平気になってしまったし、子供の頃、渋々食べていた物でも、

ノスタルジックな記憶も重なってくると、それなりに美味しく感じてしまう。

歳をとると、キャパが増えるのか、鈍感になるのか。

それとて、どうでもいいんだが。

 

 

ところで、各種麺類の魅力と、食べる時間軸をぼんやり

頭の片隅で考えていたことに、ずいぶん前に気付いた。

それがワタシの麺論だ。

その自分にしか通用しない麺論では、ラーメンは食べ始めに、

否、食べ始める寸前に、魅力のピークがある、と分析している。

 

飲食店なら着丼し(最近の造語ダ)、家なら食卓に並べ、

さて、箸とレンゲを両手に構え、丼から

ニンニクや油の香りがのぼる湯気が立ち込め、

霞んで見える、その器の中の具材の並びを目で一巡して楽しむ。

チャーシューの厚さなぞを確認し、

はてさて、スープからか、麺からか。

ふぅふぅしながら…、の、、、ひととき。

その一瞬が多分、最も至福なんじゃないかなぁ、と。

 

 

スープをすすって、麺を持ち上げ口に入れた瞬間から、

次第にラーメンの魅力は失せていく。と、ワタシは感じている。

 

麺が半分以下になった頃には、もう亡骸である。

スープを含んでしまったぐったりとした麺や、

濁ってどんよりしたスープへと変貌し、

アノ夢は砕かれる。(何の夢じゃ)

 

というか、食べること自体が単調な作業(ルーティン)と化す。(ワタシの場合)

とにかく、ラーメンは食べる寸前が最も美味しい(美味しそう)。

という、皮肉をはらんでいる。(どうでもいいって?!)

という、ワタシの考察デアル。

 

 

 **************

 

 

さて、ならば、

うどんは、どうだろうか。

ワタシの中では、その魅力は麺をもぐもぐ頬張っている真っ最中、

分量が中間の時点辺りが、最も美味しいと感じる時間帯(ひととき)である。

それも、麺のコシによって左右されるから、

ここではあまり詳しく書かない。キリがないから。

(何もったいぶってんのか?)

 

 

では、スパゲティはというと、何と言っても、あと数本、

皿の底に残っているその時、至福がやってくる。

チョロっと残った短い麺は僅かなソースに浸っている。

汁気にも注意を払い、うやうやしく、

最後の短めのそれをじゅるんとすすり終えた時。

うぅ〜後もう三口くらい食べたいなぁ〜、で終る…。

その感覚が魅力のピークなのである。

(あっ、ワタシの好きなポモドーロの場合デス)

 

 

まとめると、ラーメンの魅力のピークは最初。(正確には食べる寸前)

うどんの魅力は中間地点がピーク。

スパゲティの魅力の頂点は食べ終わる寸前。

 

繰り返すが、あくまでも

ワタシの麺論デアル。

 

******************

 

素麺の魅力はワタシの中で、スパゲッティに近い経過の喜びがある。

冷麦の魅力はワタシの中で、いつなのか今ひとつ分からない。

 

そういえば、蕎麦を忘れていた。

蕎麦はざるなら、最初から最後まで魅力的。

それでも、最も美味しいのはやはり食べ初めだ。

手打ち蕎麦なら、麺包丁の切れ味の良さで、切り立った麺の側面、

一本ごとのそれが束になり、麺の角の鋭さが口唇を通るとき、

確かな風味を喉の奥に運んでくれる。

おっと、麺類の中で最も水の良さに左右されるのも

蕎麦である、と思うのだ。

 

温かい蕎麦は、出汁によりけり。麺が終っても

出汁の透明感が残っていて美味しいと、

それを飲み干すことで、

何とも言えない満足感がやってくる。

もちろん、具材にも左右されるのは、

温かい蕎麦の特徴だ。(と、思う)

 

でも、たまにワタシは学食的な、

サービスエリア的な、立ち食い蕎麦的な…

小麦粉たっぷりの、ぶにょぶにょB級蕎麦が食べたくなる。

あの衝動はいったい何なんだろう。

この件も、まあ、どうでもいいんだが。 

 

ちなみに、中年になる前までは蕎麦が苦手だった。

喉を通過する時、蕎麦のイガイガ感があった、それは

おそらく蕎麦アレルギーに近い症状だったのではないか。

今は、それが全く無くなった。蕎麦の楽しみは、蕎麦湯も含め

色々あって。やはり蕎麦を食す喜びは年齢と共に増すものか。

日本人だなぁってな風情を自分に投影するのである。

(バカなの〜?ワタシ。。。)

手打ち蕎麦のお店を巡る楽しみもあったりする。

 

 

蕎麦はネギの千切りが繊細である程、嬉しい。

かつ、わさびが本物か加工品か。本物のわさびは風味の楽しさ。

加工品は優しい蕎麦の風味を多少かき消してしまうが、

つんとくる辛みから、それはそれで食べている実感があるので、

案外、嫌いじゃない。単に、庶民の味覚習慣。

ともかくは、薬味も感じの良い器に、

気を利かせた添え方ならば、所作の楽しみもあって、

満足感が高いものだ。

 

 

 

数年前に、フランチャイズ店の刀削麺に出会った。

その中でも麻辣刀削麺の味が、すこぶる気に入ってしまった。

 

独特な中華風味で、好き嫌いがありそうだ。

自宅ではその風味を食べたいと思わないのだが、

中華料理屋にそれがあったならば、すかさず頼んでしまう。

ワタシの中では大変クセになる、五香粉(桂皮や花椒など)の

エキゾチックな香りが楽しめる。

刀削麺は10cm前後で一本一本の形が違って、きしめん

ように薄いが、端がぴろぴろとひだ状になっているところが

すする時の楽しみだ。

麺のたねの極太の小麦の塊を刀削麺用包丁で、

ぐらぐらと湯が湧いた鍋に、

削り飛ばして一本ずつ随時、茹でていく。

短時間の作業が要求される職人技だろう。

麺の善し悪しは技で変わるから、当たり外れの落差はやむを得ない。

先日食べた刀削麺は、ハズレだった。(泣)

器の2/3の麺が妙に分厚く小麦粉感が残っていて、無念であった。

(開店と同時に足を運んだ程、食べたかったから…。執着し過ぎなのだ(呆))

更に、生のニラとぽそぽその豚ひき肉も乗っているのが好みデス。

(どんだけ拘るんだ〜)

ともかく、最近のワタシの中でのイケメンは刀削麺と言っていいかナ。w

 

 

他にも、20代前半、

友人が連れて行ってくれたお店の韓国冷麺は初の食感で、魅せられた。

冷麺への執着が30代まであった。

イカや梨、透明なスープと金属の丼が何とも涼しげだった、

焼肉店の冷房の効いた、静かな夏のひとときを思い出す。

だが、なぜか飽きてしまった。

 

 

 

そんなどうでもいい麺論と麺暦。

ワタシの個人的な嗜好をブログにダラダラ書いても

仕方がないので、この辺で。

以下、割愛。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾畠春夫さんのことから 【二】

 

 

前回の内容に続いて、ワタシの感想を。

 

尾畠さんの30分以上のインタビューの中で、

理稀くん行方不明の一報がマスコミから全国に報じられた日から、

大分県に住む尾畠さんは山口の捜索現場まで行くか行かないか、

2日間ほど検討したという。

3日が過ぎ、まだ発見されていないことを新聞で知り、

即座に車で一般国道を使い、山口県へ向ったそうだ。

8月15日午前6時、現場の捜索に加わった。

尾畠さんの経験や勘を頼りに子供は山の上へ向うと考え、

歩みを進めたその20〜30分後に、あっさり理稀くんは見つかった。

 

マス‘ゴミ’と皮肉って、ワタシは常々批判している。

一方、不特定多数の人に伝え、まるで無関係に感じるマスコミ情報を

尾畠さんは我が身のこととして捉える。

 

以前、海外の自己啓発の書籍を読んだ時にも、

今回のことと近い話が書かれていた。

事故に遭いケガをしたり困っている人を新聞で知ったなら、

見ず知らずの人へ直接、金銭支援する人物を紹介していた。

 

また、「あなたと健康」という月刊小冊子を40年以上、

執筆発行されている東城百合子さんのメッセージも思い出される。

何事も自分のこととして本気で受止めることが、人生に於いて大切。

現代のマスコミ社会はそれが失われがちだ、と。

 

マスコミが報じた情報を身近なこととして痛みを持って受け止めるのは、

当事者か、知人関係くらいなのが今どきの(悪しき)常識である。

縁もゆかりも無いような人が、自分のこととしてマス情報を受け止め

行動するというのはなかなかできることではない。

マスコミの情報は他人事になるよう作られてもいるだろうし、

視聴率が最優先の現場では取上げた情報はいち材料・商材に過ぎない。

営利的な情報が溢れ、大衆はそれに対して鈍くなり、

危険なこと面倒なことには一切、関わりを持たないよう保身だけを

情報から抽出し、マヒしてしまったとも言える。

あるいは、マスゴミの美味しいとこ取りの群れ、小市民。

 

垂れ流す無責任さ、ジャーナリズムだ、客観だと言って、

キレイ事にだけ参加し、事件事故現場で困難に直面している人を

冷酷に見捨て、割り切って取材する野次馬集団は、

人間として罪深い。無責任さ冷酷さがマス情報に

鏡の如く転写される。受け取る側にも潜むそれを自覚しない限り、

同じ穴の狢となる。

 

ともあれ、尾畠さんの情報の取り入れ方を見習いたいものだ。

そして、何よりその行動力に頭が下がる。まずはできることから

行動しよう、と今回の件は身近なことに感じ、ワタシも勇気を頂いた。

身近で気付いたことからでいいと思った。

 

また、尾畠さんの意識と行動のスケールが、マスコミという幻想組織を

とっくに超えているからこそ、今回の朗報がもたらされた、と思う。

個の自律する意識は、時に偽ユダ御用達組織も

役に立つことを起こすのか…。

 

 

ロ事件について転載した内容の一部分で思ったのは、

事件や事故などマスゴミが流す情報の渦中の人が案外、

疎いこともあるようだ。まるで台風の目の場所だけは、晴天になるが如く。

 

真実を捉えることは決してない、

それがマスゴミであり、幻想組織である、と思った。

 

 

マスゴミの偽ユダの使役としての役割は、

・事を荒立るため、混乱を促すため。

・あらゆるプロパガンダのため。

 特に偽ユダ所有企業スポンサーにとって

 メリットの多い情報を公平を装い意図的に流し、

 その企業デメリットになる情報はまったく伝えない。

 その他、買収前の企業の株価下落を狙って後遺症にならない程度の悪評を流す。

 ライバル企業はマスゴミスキャンダルや風評で、弱体化か再起不能にする。

 つまり、ニュース報道等でイメージアップの意図がある企業は偽ユダ株所有。

 (分かりやすい…笑)

・イメージも含め、西洋人社会を賛美する情報が、非常に多い。

・大衆にとっての悪法を立法させる時期は、

 他の下世話な情報で大衆を攪乱し目逸らしする。

・自己顕示欲を触発し逆なでし、優劣感情を盛り上げ

 大衆の競争社会を激化させる。

・人間の意識を貶め、大衆に本質的なことを考えさせないよう誘導し続ける。

・知らなくていいことまで知らせ、大衆の不安や恐怖心を煽る。

 逆に、知らなくてはならないことからは目を逸らさせたり、御用学者や

 御用専門家らを利用し、重要情報を捏造や隠蔽をする。

・過去の辻褄が合わない事件事故の情報は隠蔽する。

 事件事故などの報道経緯を検証することもなく、垂れ流しっぱなし。

 

 

 

マスコミの存在その建前は、大衆の味方であり政治を監視する役割のはずだ。が、

その実、闇の権力者である偽ユダの創設した機関であり、

大衆を家畜化〜ロボット化という最終目的があることは

情報の長年の系譜を検証すれば明らか。

かつ、日本では日本人に母国愛を抱かせないため、

自国を嫌う、否定させるため、

GHQ置き土産の、「反日」感情の啓蒙活動(汚染脳)が

今も尚、マスゴミで着々と続けられている。

自国を卑下する感情を植えつけるよう、

日々の国内外の事件事故の情報を過去も含め、

微に入り細に入り偽情報を拡散する。

殊更に日本が荒廃していくよう促す情報に満ちている。

あるいは捏造、冤罪にまで加担する。

今回のように稀に、朗報を伝えても執拗に取上げ、

マスゴミ十八番のほめ殺しで、大衆を食傷気味にし

飽きさせるよう仕向る。

平凡な人が突然ヒーローになったことを

人によっては、嫉妬する負の感情をも刺激する。

 

マス‘ゴミ’たる所以である。

 

インターネットのお陰で誰もが不特定多数に向けて、

発言できる時代になったから、

以前ほどマスコミプロパガンダの効力は無くなったかもしれない。

マスコミ情報で好奇心を満たす情報、娯楽の延長、

情報を消費・消耗する時代は終りだろう。

 

マスの情報も身近な訴えとして受止められる世相に変わりつつある。

だが、ワタシも含め個々の情報発信の真偽は、

偽ユダの最終目的で束ねられてきた

茶番で分かりやすいマスゴミ偽情報のそれ以上に、

情報源は不確かで、更に混沌としている。

今、偽ユダの大衆を制御する注力は、

ネット、SNSクラウド化よって

大衆への偽情報配信と収集をAI社会へ仕向けられている。

それは性急で、焦っているようにも見える。

 

 

ともかくは、自分の身に問題が起きた時、誰しも本気になる。

よって、マス情報を自分のこととして捉えるには、己の器に呼応する。

マスゴミ情報を単に批判しているワタシは、

尾畠さんのスケールの大きさに足下にも及ばない…。(反省ーー;)

 

**************** 

 

過多な情報を取捨選択する基準は何であるだろうか。

欲を基準にした意識、何かを求め与えられる、

何かを得るため得するため、助かりたいがために、

また自己存在を肯定する、自己顕示欲を満たすために。

自分にとって都合の良い情報、受動的な情報に、

群がってきたのが、私たち大衆だった。

 

尾畠さんのように、自分に何ができるのか。

この身を置くこの世界で、今の自分は

何を与えることができるのか、という能動的な意識、視点。

個の自律によって、偽情報は効力を失っていく…と思った次第。

加えて、精神状態、意識の波長によって、

取り込む情報が変わることも自覚する必要があろうか。

 

 

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長くなるが、

後述する「逝きし世の面影」第十四章〜心の垣根〜から抜粋した

内容に寄せて、感じたことを書き留めたく。

 

 

「さゆふらっとまうんど」さんというIDでYouTubeに動画を

投稿されている方がいる。IDは少し馴染みのない言葉であるが、

「平塚まさゆき」さんという実名を公開して、社会活動家と

名乗る勇気ある投稿者だ。

彼は闇の権力の存在を数年前から認知し分析し、熱心に発信

しておられた。彼の動画を時々視聴させて頂いている。

 

さゆふらっとまうんど - YouTube

https://www.youtube.com/channel/UCbLAlPK5nmnAq8fwnHhMSIg

 

 

最近では、2017年春に千葉で起きた‘りんちゃん殺害事件’の

冤罪の可能性を踏まえ、真相究明をテーマに情報を発信していた。

任意で、刑務所で被告者と面談し、事件の経緯や被告とされている

本人の心情を丁寧に取材していた。

それを随時、YouTubeで公開し、

マスコミ報道の経緯や警察の所動や応対について、疑問を投げかける

動画を長時間にわたり、いくつもアップロードしておられる。

殺害事件の記者会見が千葉県庁舎5階で行われた際、

会見参加希望者の抽選に漏れた彼は、様子だけでも知りたく

5階ロビーで待機していた。会見終了後、

見ず知らずの男性とエレベーターに乗り合わせた。

そのほんの数秒の密室状態の時、その男性から突然、暴行を受け、

更に、所持品のビデオカメラを盗られてしまった。

直後の映像をスマートフォンで記録し、事の次第を伝えている。

 

事件会見後ともあって、すぐさま、

近くにいた警察・刑事に経緯を訴えたのだが…。

平塚さん自身が咎められるような問答に進んでしまう。

彼は、動転し刑事の対応が異常であることに、当事件も含め、

改めてこの殺害事件の捜査、犯人断定、マスコミ報道に不審感を募らせた。

よって、見ず知らずの男が警察と繋がっている、と

断定は避けるも、彼が警察そのものに疑念を抱くのは当然のこと。

 

後日、千葉中央警察署へ問合せた。

今回の彼からの訴状について立件をしないという警察の不自然な対応に

業を煮やし、数回、千葉中央警察署へ電話をかける。

が、警察側の不誠実な対応に呆れる平塚さんの様子に、

色々考えさせられた。

 

全国的に情報発信された怪事件に、個人として疑問を呈し、

身近なこととして考え、行動することが、

非常に危険なことである…という実態。

なぜ、正義を掲げている

組織に疑問を投げかけ踏み込むことが、危険になるのか。

それは偽正義だからに他ならない。

 

 

市民から集めた税金で、生活が成立つ側の公務従事者である、

警察、公安、検察、裁判官…官僚…。何故かしら、

絶大なる権力と実力行使、不気味な狂気をちらつかせられ、

常に市民はその威力に平伏している。

小市民、大衆のおののく様相に付け込んでもいる。

そこに切り込もうとする、

若者の行動を見ていてハラハラするも、

自分には何もできない、せいぜいここでぼやく小市民(家畜)ぶり。

 

政治が正義であれば、そんなハズはない。

政治権力が、警察を窓口に偽善、偽正義であることを

彼の行動と共に、この一件が如実に証明している。

 

 

明るいニュースに繋がった尾畠さんの活動と、

彼のように、政治権力・偽正義にある闇へ立ち向かう若者の正義感、

そのテーマが対照的だった。

マスゴミと同じく大衆は冷酷に、無責任になるよう

ひたすら飼いならされてきた。

警察、公安の実力行使と、監視・懲罰が目的の国家権力で。

 

非常に危険だけれども、それを承知で、

重要な市民活動をひとりでコツコツと実践している、

社会活動家。

 

闇に、偽ユダに、繋がっている(全国配信のマスコミ情報)

大事件大事故では、真相を追求し行動する善意の個人を

法律は一切守ることはない。

社会から孤立させられてしまう可能性さえある。

法律が、むしろ凶器に変貌する恐ろしさを

平塚さんの動画からそれを実感した。

 

小市民であることが如何に偽善であるか。

権力に対峙すれば、偽善者ではなくなるが、

居場所、市民権が失効されてしまう。

偽社会。嘘まみれの世界。

 

 

ほとんどの現代日本人が無関心の、

江戸社会、政治には、正義があった。

年貢(米や繊維…現物)を徴収し、生活が成立つこと、政があることを

公務の人々は自覚していたからこそであり、

筋が通った社会ということだろう。

明るさや良質なユーモアが社会を人々の心を満たしていた。

あるいは、とても「敷居が低い政治」であったことも。

 

 

現代日本社会で、役所へ用件がある人なら経験があろうか。

公共へ苦情を伝えても、タライ回しになることは有名であるが、

今回の平塚さんの暴行盗難の事件で、

警察官の対応は、例に漏れず、更に冷酷だった。

 

組織側の人間になると、人と人との関わりをしなくなる。

不平等感の始まりだ。

日本人の「心の垣根」を高くしていったのは、

明治以降の政治、つまり西洋型の政治なのだ。

 

個の感情、本音本心に不誠実になり、

組織を主人にして、保身する、寄らば大樹の陰。

慇懃無礼な態度で片付ける、公務にあたる者の様子は、

人間の心を醜くするものだ。

 

江戸社会と現代日本社会の落差を

私たちは多少なりとも、知らねばなるまい。

 

 

 

 

 

 

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「逝きし世の面影」渡辺京二著(平凡社)___

第十四章 心の垣根    一部抜粋(566~567頁)


 ゴローヴニンはその慮囚記に、たびたび日本人の笑いを記録している。
奉行の取調べに当たって、ロシア語を知っていると称する人足が通訳に起用された。
奉行がまずその男に何事か話すと、そいつはゴローヴニンに向い、「お前は人間だ、
俺は人間だ。ほかのも人間だ。どんな人間か話せ」というような、訳のわからない
ことを言い出した。そのうちこの男は、ロシア語で父を何というかも知らないことを
暴露してしまったのだが、そのとき奉行と役人たちは腹を抱えて笑ったのである。
 これは何の笑いだろうか。ロシア語をろくに知りもせぬのに、しゃしゃり出て
通訳をつとめるという、その滑稽さが彼らを笑わせたのは確かだろうけれど、
その底には、民族がちがえば言語もちがって、同じ人間どうしが種々の滑稽を
演じなければならぬという事実のおかしさがあったのではなかろうか。それに
してもこれは、寛容で大らかな笑いである。

 

 ゴローヴニンは奉行荒尾但馬守の日頃からの行為に厚く感謝していた。
荒尾と新奉行の交替に当たって、彼は荒尾へ感謝状を草したが、それを読んだ
七十四歳の新奉行小笠原伊勢守は「不幸にも虜囚の身となったが、運命は
われわれに苛酷なばかりではなかった。何となれば奉行がこの地方を統治して
いるときにこの事件が起こったからである」という一節まで来ると笑い声をあげ、
「他の日本の高官が荒尾但馬守の職についていたら、彼ほどその方どもに好意を
持ってくれなかったとどうして分るかな」と問うた。これは頭のよい、そして
良質なユーモアである。

 

 

 

***************

 

 

上記抜粋部分の紹介で、

しつこいが、もう少しワタシの感想を。

 

 

たった一人の西洋人でも日本にいれば、

政治的に影響が大きい鎖国下の時代にあって。

ロシア人の通訳に、人足とされるいち個人が、しゃしゃり出て来て、

ほとんどその男が“外国人見たさ”であろう、珍劇を繰り広げた。

まず、その男を起用する奉行所の「敷居の低さ」に、私は驚いたのだった。

もちろん、ロシア語をできる人が全然いないのだから、

できる、と申し出る人がいれば誰でも、起用する時代背景だが。

それにしても、この男と役人たちとロシア人との微笑ましいやり取りは

どんなに時代が変わっても、変わらない、

人と人の触れあいの本質が見てとれる。

 

 

現代日本社会の政治、あらゆる組織の「敷居の高さ」は、

大衆も偽ユダも含め、みんなで作った幻影である、と私は思っている。

政治的な通訳者の起用に、江戸時代のようなラフさが

現代政治には全く無い。

如何にも、西洋的な権威大好き人間の集団が、采配する社会を

象徴する「敷居の高さ」。

組織が、怪物となる西洋型の社会構造。

 

そこにもマスゴミの罪がある。(自己顕示欲を満たしたい者を群がらせる)

映像を駆使し敷居の高さを広げようとするマスゴミは、

個人と個人の間に、ご丁寧に大きな溝を作り続け、落差を仕込んでいる。

ホント困ったもの…ダ。┐(-。ー;)┌ヤレヤレ

 

ひとこと、ふたことみことも感想が多いが。。。

(ワタシも自己顕示欲が強い。苦笑)

 

自己顕示欲の強い西洋人視点での謝意が、

浅はかな思慮のない頓馬な発言であったとしても。

当時の日本の役人は、あっさりユーモアに変えてしまう、

懐の深さを思う。

(大)昔の日本人は、素晴らしかった…と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾畠春夫さんのことから 【一】

 

 

8月15日。
8月12日から行方不明になっていた藤本理稀くんを
尾畠春夫さんが発見し救助した話題が聞こえてきた。
TVは無く見ていないが、ネットの記事であちこち取上げられて
いるから、関心もあってYouTubeにあったインタビューの動画を視聴した。

(日頃、TVを見ている人にとっては食傷気味の話題かもしれない。)

 

尾畠さんは生業の鮮魚店を65歳の誕生日で辞め、恩返しの気持ちで、

ボランティアに専念し、もう13年献身的に活動されてきた方と知り、
敬服してしまった。丁度、父と同じ世代ということもあり
親近感を覚えた。信条も似ている。

 

インタビューの動画が30分以上ある中で、理稀くんが見つかったことを
自分の子供のことのようにして感動されている。
尾畠さんの涙して喜ぶ姿はワタシも思わず、もらい泣きしてしまった。
皆、繋がっているなぁと。

 

また、献身的な心で生きて来られた方だからこそ、

たった20分で見つけることができた、

奇跡を引き寄せる、神業をも感じた。


理稀くん行方不明の件はアブダクションではないか、との説も

あるようだが。それはさておき。

 

***************


ところで、尾畠さんのインタビューの中で、ワタシなりに感じたことを
書き留めたい。

捜索していた理稀くんを発見し、ご両親へ引き渡すまで、
決して警察や消防に託さないと宣言していた様子が印象的だった。
理稀くんの家族と尾畠さんとの約束。もし、私が見つけたら直接、届けると。

 

現代の法律は私たちの生活を守っているようでいて、
監視や管理であったり活動の自由を奪われたり、
個人の理に適った意志や判断が排除されている社会。
本当の弱者の切実な声は、切り捨てられる法規制や世相。

それを痛感する時代にあって、法律に対しての尾畠さんの宣言は、
些細なことのようだけれども、
現代の西洋型の法律とは根本的に相容れない、
日本人の精神性、(古き良き)日本人魂を垣間みた気がする。

 

法律よりも、人情であり、法律よりも、思いやりでありお互い様の心、
個人の約束、良心が、実は社会を支えている…。

個と個は対等であり、組織は従属するものという真実。

 

 

もともとの日本(江戸期まで)は平等な社会であった。

明治から西洋型の法治国家に変貌した。

競争社会、生産性効率性、金銭多寡の損得勘定やキリスト教者的な善悪判断が、

狂育やマスゴミで示され汚染脳へと仕向けられてきた。

差別問題にばかり目を向けさせられ、江戸期までの日本人が元来持っていた

生物の摂理の中にある、内なる平等の意識、あるいは慈悲心や、

主体的な個の良心、個個の対等は失われていった。

 

西洋的な教育・宗教・政治による倫理観や懲罰は、外部からの規範。

それを牽引するマスゴミプロパガンダで、大衆の恐怖心を煽動し、

受動的な強迫観念の中に「平等の意識」は埋もれてしまった。

 

また、現代日本人は西洋化で、‘個の自立’こそが‘大人’とか‘成功者’だ、と

狂育やマスゴミは喧伝する。確かに、個の欲望、自己顕示欲を満たしたり、

わがままや、傲慢な所望、野心は、カネがあれば何でもかんでも実現できる。

金銭による経済的な自立や、物理的あるいは表面的な自由さは、

多くの現代日本人が手に入れただろう。だが、

個の意志、良心や良識ある判断、‘内なる自律’を培うのに、

権力側の影響が絶大で、極めて困難な社会。欺瞞の現代日本

そうした中にあって、尾畠さんの活動は稀有がゆえ、極端に注目が集まる。

過剰なマスコミ報道は、大衆のヒロイズムをくすぐり、嫉妬心や焦燥感をも駆り立てる。

そうして個の自律の芽を攪乱し枯らそうとする。

 

 

法律の云々以前の、生物として本来の人間の全うな判断力。
自然摂理に沿った本能的な生活や行動や精神性。
(現代のような権力側の命令や規律が及ばない…、
 余白・余剰、間や遊び…の大切さを思う)

無意識だけれども、昔からある日本人の意識。
心根から発露する良心的な行動や知恵、直感。

 

現代日本に於ける政治経済や宗教・教育…、

それは支配都合の西洋的規律。

貨幣の威力が、良心を穢したり、己を蔑む、

物質偏重や性悪説が前提の西洋的な思想に基づいた法律は、

人間の本質的な自律・意志を萎えさせる。

良心・知恵・直感を見失う。

見えない首輪を大衆全てが付けている。

依存的な保安の社会。

 

 

 

個としての自律・意志が、この世も含め宇宙の本質という印象を
戦前生まれの尾畠さんの言動や生き方から感じられた。

宇宙の本質とは、少し大袈裟な言い方かもしれない。

「お天道様」を悟る、と言い替えてもいいだろうか。

 


度々、当方が紹介する「逝きし世の面影」にある内容が、
この事例と重なると思ったので、少々お固い文体だが、私見も含め
2回に分けて掲載したい。

 

 

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「逝きし世の面影」渡辺京二著(平凡社)___

第七章 自由と身分  一部抜粋 (264~266頁)

 

 オールコックが慎重に推量の形で披露したのと類似の見解を、カッティンディーケは
ほとんど断定に近い口調で述べる。「日本の下層階級は、私の看るところをもって
すれば、むしろ世界の何れの国のものよりも大きな個人的自由を享有している。
そうして彼らの権利は驚くばかり尊重せられていると思う」。
この思いがけぬ断言に私たちは驚きと戸惑いを禁じえないが、とにかく彼の言う
ところを聞こう。

 そのように民衆が自由なのは、日本では下層民が「全然上層民と
関係がないから」である。上層民たる武士階級層は「地位が高ければ高いほど、
人目に触れず閉じ籠ってしまい」、格式と慣習の「奴隷」となっている。「これに
反して、町人は個人的自由を享有している。しかもその自由たるや、ヨーロッパの
国々でも余りその比を見ないほどの自由である」。
 
 法規は厳しいが、裁きは公平で、「法規と習慣さえ尊重すれば、決して危険では
ない」。こういうカッティンディーケの所見は、後述するフィッセルの著述の影響を
受けているのかもしれない。


 しかし「日本政府(徳川幕府)は民衆に対して、あまり権力を持っていない」と
驚くべき断言をするとき、彼は彼なりに経験を踏まえていたのだ。


 オランダ日本駐在全権領事官ドンケル=クルティウス(1813~79)が
出島拡張の一案として、町との境になっている掘割の埋立てを提案したとき、
奉行岡部駿河守長常(1825~66)が、そうすれば「近所の民家はすべてその所有する
艀の溜まり場を失うことになるからという理由で」拒んだ例を彼は紹介する。
 彼のいうところでは、奉行の回答書には「奉行と言えども日本の掟を守り、
この権利を尊重しなければならぬ、という町民の感じをしたためた書面が
添えてあった」という。カッティンディーケはこのことをもって

「政府(幕府)がいかにその国民の権利を尊重するか」ということの一例とし、
この種の例は他にもしばしば見受けられたとつけ加えている。
プロシャ使節団のヴェルナー艦長も「絶対専制支配が行われている日本において、
個人は時に立憲的なヨーロッパにおいの諸国家においてより多くの権利をもって
いた」例として、次の様な話を紹介している。

 

「われわれの長崎滞在中に幕府は病院を建てようとした。幕府につかえて
いたオランダ人の軍医少佐ポンぺ博士は、このための適当な場所を捜し出し、
長崎奉行もこれに同意した。その場所は貧しい農夫が居住し、1~2反の畑を
耕作している丘の頂上であった。
 奉行はこの農夫に、この土地を地価と収穫高とを算入して幕府に譲渡するように
頼んだ。だが農夫は自分がまいた種をまず収穫したいと思うと指摘し、
幕府の依頼をあっさり拒絶した。

 彼にはその後、二倍、三倍の価格が提示されたが、彼は強情な態度を改めず、
最後にはどんな条件でも土地を譲渡するつもりはないと宣言した。
奉行は強制収用する立場にはなかった。強制収用法は日本には存在せず、
幕府は止むなく他のずっと不適当な土地を病院のために購入することになった」。
 

 むろんこの挿話はまともな史家ならば、利用をためらう種類に属する。
第一にこれは伝聞である。第二に、よしやオランダ人がヴェルナーにそのような
説明をしたとしても、オランダ人は幕吏から、その土地を断るための遁辞を
聞かされたのかもしれない。

 だが、私は、ヴェルナーのいうような事実はあってもおかしくないものと考える。
この時期の長崎奉行は、すべての欧米人がその開明性と温雅な態度を賞讃した
岡部長常である。カッティンディーケの伝える前例といい、岡部ならこのことが
あって不思議とはいえない。
 カッティンディーケが経験したところでは、幕吏は乱暴を働く外国人に対して
はなはだ軟弱だった。オランダ水兵が事件を起こした場合も、穏便にことを
すまそうとする風が見えたので、かえって彼の方から、そういう場合は容赦なく
処分してほしいと頼んだくらいである。
彼らはいったい何のために両刃をたばさんでいるのか、というのが彼の率直な
疑念だった。しかも幕吏は外国人に対してだけ弱腰だったのではない。
 彼らは「例えば甲と乙との町の住民の間に争いが起こった場合には、
往々町中の恐ろしい闘争となり、闘争の後には幾人かの死人が転がっている
というような騒動が起きても、決してそれを阻止することはない」のである。
「私は一度そのような大闘争を目撃したが、それは長崎で流行する凧揚げの
遊戯が原因であった。その犯人は事件の終了後になって訴追せられはしたが、
喧嘩は何時間も長い間、何の防碍もされずに続いた。
町の顔役が出て、そのいきり立った青年たちを宥めて、やっと喧嘩が鎮まった
という有様であった。
  我々が日本に着く少し前のことであったが、厳重な監視を受けて
いた支那人街から、2~3百人の支那人が町に流れ込んで、
長崎に数日間上へ下への騒動をかもしたことがあったが、その時とても、
奉行は、その支那人を指定の居留街に復帰せしめる適切な措置を
少しもとらなかった。支那人は酒にも飲み飽いて、とうとう自分から居留地
帰って行った」。

「日本の幕吏にいたっては全く言語道断だ。我々はむしろ警吏は全然ないと
言いたい」というのが、カッティンディーケの感想である。

 

 彼の証言は、われわれが長年慣らされてきた幕藩体制下の抑圧された民衆像と
あまりに喰い違っているので、にわかに信じ難い気がしないでもない。
しかし、アンベ―ルもまた、これとまったく同じ趣旨の証言を行っているのだ。