ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

プチ断食 追記1

 

 

書き忘れたことのひとつに。

 

…食糧が無くて食べられないこと。

飢餓。

 

…食糧があっても食べないこと。

断食。  (意志?意図?)。

 

その違いを思った。

 

 

 

 

 

近年の食に関する経緯に思いを馳せると、

第二次世界大戦の前後

(幕府開国後の国際金融家資金提供]の

戦争漬け社会 ‘それ以前の内戦も含め’ 

日清・日露・太平洋戦争の前後期)、

日本人は紆余曲折で食糧が不足して

食うに困る時代(農耕混乱期)だった。

 

 

〜明治大正昭和初期

「食べる」こと、その根源を自覚せざるを得ない世代。

(生理的欲に翻弄された)

 

 

〜昭和後期平成

GHQによって日本の農耕社会を破壊。

多国籍企業が食を牛耳る下準備期)

 

「食べる」ことの雑多かつ微小な選択肢に翻弄され、

己のみの美容と健康に執着する、

生理的欲に翻弄された次世代の反動。

(飽食と旨いことに執着する、グルメ病〜世相)

 

その振り子現象。

 

 

 

 

「食べる」ことが、

常に可能

(金銭礼賛の威力で海外に大きく依存可能)

農業食糧のマスゴミ&企業&行政支配の汚染脳

ある故に、

飽食から来る混乱が、

現代社会(約70年間)の薄っぺらな、偽食・偽美容健康の情報社会を

形作っている(企業・行政・マスゴミの付け入る隙=“汚染脳”)

ことを思う。

 

 

食べ物が今ここに有る無しについての…、

悠久の時間。

 

それは、農耕の食‘糧’獲得‘法’】と【狩猟採集の食獲得”との違いを

考察するきっかけにもなる。

(どちらが正解でもない、と。)

 

 

************

 

 

更に加えるなら、植物や動物、人間の可視できない生物(微生物)たちと、

土・水・空気・光…の巧みな自然循環と人類との関係性を

今一度、改めて意識することだろうなぁ…と。

 

 

 

 

(長い年月、北アメリカに暮らして来たインディアンの食についての言葉は

次項に記すつもり…。深淵だった。)

 

 

ともあれ、断食モドキを試行する時。

カネが潤沢にある時と、

カネがカツカツの時とで、

 

食確保の「心情・心象」、その安心と欲望が、

違ってくるように思うのが、

滑稽(可笑しくてどこか哀しく侘しい)で…。

 

現代人(己のこと)の性って何だかな〜…ってな

ことを思う。(苦笑)

 

 

カネによって、食を得る事の

虚無を感じた次第。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プチ断食

  

 

ちょっと断食もどきをやってみた。

人参ジュースや葉物ジュース(生野菜からの汁)を

食事代わりに飲む。

 

(ちなみに企業製造の野菜や果物のジュースは濃縮還元で水分とほぼ糖分だけ。

飲んでも栄養が無いので、生からのジュースとは別物。

野菜や果物の代替として摂取しても栄養的に全く役に立たないので、

野菜や果物を食べたつもりになってしまう人が多いから…、要注意。)

 

 

 

少しだけ、果物も食べた。

朝昼夜と翌日昼食まで。

 

夕食を食べないことは少しハードルが高かった。

その代わり、匂いに敏感になったり、

毎日当然のように食べられることに、

感謝が湧いてきたり。

今そこにある食材へ神聖な気持ちになったり。

美味しいと感じて食べていたかを

省みることができたような…。

 

今日の夕食は何を作ろうと迷う時は、自分の

お腹が空いていなかったんだな、と

当たり前のことに気付かされたり。

 

日々生活のリズムの中では、

食事は「ハレ」の時間なんだなぁとも思った。

空気のように、食糧も無意識になっていることに

改めて気付かされた。怖いことかも…。

 

そういえば、いつもよりやる気が出た気もする。

たった一日位でわかったようなことを

書くのも憚られるけど…。たぶん、

食の確保如何は、生理的欲と精神的欲が繋がっているんだな。

 

だから、日本人が常に食べられる環境があり、

汚染脳も加勢しての食べ過ぎ生活は、

精神的欲 (本心・本音) と、

根源的な生理的欲 (本能) の振幅が少なくなって、

自身の心と欲のことが解らなくなり混乱している

側面があるんだろう、

…ってなことを思った。

 

 

時々、慣行しようかなと思う。

 

 

 

 

 バレンタインでぃ ×△× くだらん。 毎度おなじみ消費社会プロパガンダ

 

 

「日本の真相」 船瀬俊介氏著

“はじめに”の冒頭より

 

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“はじめに”

 

「世の中、めあき千人、めくら千人、残りの8千人は

バカである。市場とは、このバカによって構成される」

これは、某広告代理店の社長が言い放った言葉。

まさに、顧客をバカとして見下し、卑下しきっている。

20歳頃のわたしは、この一文を読み体中の血が逆流する思いがした。

文字通り、怒りで身が震える思いがした。この放言こそが、わたしが

20代で消費者運動に身を投じるきっかけを作ったのだ。

さらに、次のような言葉がある。

 

「もっと使わせろ。

もっと、捨てさせろ…」

 

これは大手広告代理店・電通が、かつて社員を鼓舞するために掲げた“社訓”である。

それは戦略十訓として、電通マンにたたき込まれていた。

「十訓」は次のように続く。

 

「無駄遣いさせろ。

季節を忘れさせろ。

贈り物をさせろ。

組み合わせで買わせろ。

きっかけを投じろ。

流行遅れにさせろ。

気安く買わせろ。

混乱をつくり出せ。」 

 

なるほど。消費者をバカにしきっている。これでは顧客というより、

家畜なみの扱いだ。

 

(以下省略)

 

*****************************

 

上記の言葉を一言でも記憶して、

買い物に行くと、納得するハズ。

さすが広告業界の名言だなぁ、

すごいなぁ、と。(笑)

 

 

 

 

 電通社員の超過労働をマスゴミで大騒ぎしたのは

つい最近のこと。

ニュースについて詳細知らず関心もないから、

書くのはマズいかもしれないが…。

 

会社がイヤなら辞めればいいのに、それをしないのは、

社員として社会的地位、高給待遇を維持したい

本人のエゴなんでないかぃ?!、と

トピック記事の見出しを一瞥した。

 

あのニュースも毎度おなじみプロバガンダだろう。

ネットのあちこちで真相がささやかれ盛り上がりつつあり、

天下の大広告会社がかつてないほどバッシングされているから、

お涙頂戴トピック作戦をうって出たのかいな?!と。

当事者の心情へは不謹慎なことかもしれないが、そう受け取った。

 

天下無敵の大広告会社が派手に繰り広げ続ける広告で、

その大広告会社員サマの労働で、延べ何十何百何千億人もの

人間が翻弄され、もちろん 地球環境破壊 煽動企業な訳で。

 

あらゆる餌食、犠牲を思えば、自主退職で超過労働を

回避できる社員の立場に対して、あそこまで擁護する

マスゴミ報道や政治関与は、どう考えても、やらせだろう。

 

過酷で地位も望まず

低賃金労働を強いられても耐えている、

そして本当の社会貢献している善良な人たちが

どれほどたくさんいるか…、を思う。

 

(ホント、テレビ&広告は増すゴミだ。)

 

 

上記に転載した戦略がベースにあるような

狂気業で労働できる感覚が、既に病んでいる。

良識が崩壊し感受性が麻痺の、

社会的優遇に群がり続けるカネカネ人種

 

意識が刷新され始めている昨今。

流行遅れなのは、広告企業労働者マスゴミ労働者だろう。

数十年間、人間の意識を十把一絡げで社会を

コントロールできる快感を味わい、

地球を破壊することも何のその。

古典意識集団。

 

メディアを支配しているから、集合無意識を制御でき、

自作自演の流行には遅れようがないだろう。

 

が、

本質・真実・真相(マネーは権力支配者の必需品)

気付く人が増えてくると、

マスゴミ広告関連が時代遅れの薄汚れた印象に見えて来る時が、

やがてくるだろう。

 

 

 

電通戦略十訓は、アメリカ1950年代社会学者パッカードちゃん

提唱が雛形のようだ。(社会学者も人間を自然を破壊する職業だな…)

 

この十訓は2000年代の今、狙い通り現代の消費社会に

残念ながら、浸透してしまった模様。

 

使い捨てされる安っぽい衣料品、日用品、100均商品。

断捨離後に、更なる無印っぽいミニマム生活の、

消費していない気がする消費。

広告で効果を強調しても効き目のない、

むしろ身体に環境に害になる商品。

限定だ、風味だ、どこ産だ、過剰パッケージ。

容器デザインやら匂いの違いで、中身は、ほぼ同等商品。

あらゆる公共の場を席巻する慢性毒いっぱいコンビニ。

更にネットショッピングは 現金の授受がないから消費感覚が薄れ、

一層大量消費を促している。(アマ損は日本に納税していないし。)

 

クリスマスやバレンタインデー、ハロウィンやら。

お歳暮お中元、誕生日、母の日父の日こどもの日敬老の日

毎月懲りもせず、贈り物で頭が一杯の消費者。

欲しいモノだらけの消費者。

 

特に、贈り物の習慣は、気兼ねが尽きない。

偽善が偽善を生み出し増殖させる仕組み。

 心から相手への思いやりで、贈りたい商品など、

市場経済の既製品には皆無だろう。

 

 

常識、風潮、通例、そしてマスゴミ広告の汚染脳に

がんじがらめの現代人。

その購買欲は競争意識、虚栄心をくすぐるよう、

混乱させる・するよう・広告は作られている。

  

 

 

 

バレンタインデーとかで、
カカオ生産、砂糖生産し続けている
プランテーション農業支えている
人たちのことを忘れ、
民主主義や平等を訴える偽先進国民。

 

恥ずかしい。。。

 

そろそろ、露骨な汚染脳に目を醒そう。

企業・マスゴミ・狂育・行政 のプロパガンダに

気が付こう。。。


ワレワレニホンジン。

 

(ちなみにニッポン”との呼称・命名元凶組織…)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好奇心へのぎもん…の、おまけ

 

 

 

www.youtube.com

 

 

VS

 

www.youtube.com

 

digitalcast.jp

 

 

 

 

******************

 

このふたつの動画を並べるのは、かなり間違っている、、、

かも…しんない。

 

かたや才気あふれる方からの最先端科学技術の演説会。

知性を触発してくれる有難げな動画だ。

で、もう一方はユーチューバーのおふざけ動画。

 日本人の知性は地に落ちたな…感が否めない、という印象である。

 

 

が、おふざけ動画の批判、日本人の知性が地に落ちた感”を

伝えたくて並べた訳ではなく。。。

 

 

TED動画で数々の新たな知的好奇心を盛り上げる

演者の動画を見たことがある人もいると思う。たまに私も視聴する。

 

だが、このTEDという動向が新世界秩序NWOを目論む

集団の喧伝活動の一端であろうと予測でき、私は常々不気味に思っている。

 

確かにTEDには、なるほど…と思う演説も数多あるけれど。

人間が進歩発展するという目的が、

どこか一直線で短絡的で、TEDの演出そのものが欧州勢力の

自己顕示欲、自己愛の…自慰行為の強要にさえ映ってしまう。

 

まだ、この先、直線的に進むことを当たり前だと思っている、

思い込ませようとしている…。主催の視点や立ち位置が、

全く変容していない、できないことに、

ただ唖然、というのが正直な感想。

 

どこまでも人間のため、人間中心主義の技術進歩の礼賛だ。

決して、自然の一部としての人、自然界への畏怖や他生物への

思いやりや感謝についての意識の進化がテーマの演者は、

見当たらない。

 

科学の進歩発展の定義はあくまでも人間中心主義で、

その固定観念が、マスゴミの喧伝や狂育によって、

汚染脳が完了した無防備現代人の盲目を利用し、

更なる汚染脳(ロボット化)を企んでいるのだろうなぁ、と

想像してしまう。

 

 

さて、デカキンさんの動画である。半年くらい前に見た。

何と言う、アホな悪戯だろうか。相変わらず凡庸な私は、

腹を抱えて笑ってしまった。まったく、今どきの若いもんは…。

と、ありふれたぼやきが口を突いて出てきそうな…。

ネットが オモチャ化” している典型の内容である。

と、呆れつつも…ふと、

この動画から本質的なことに気付かされたような…

気がしなくもなく…なくぅ、ないぃ?!(気のせい?笑)

 というのは、日本人の独特な慎重さが、

この馬鹿馬鹿しい何気ない?罪の無い?いやアル?

悪ふざけから、垣間見えた気がする。

 

 

デカキンさんの安易な(違うイキモノ?!)女装で、

ツイキャストでコンタクトした18才の少年との会話。

デカキンさんは悪ふざけで、18才の少年に

女装がバレるか、バレないか実験したい。自分の姿を

画面に映し「見る?」と執拗に懇願するも、

先方の少年は、

「いや いい。」「いや いい。」(結構です)

「いやだ。」と問答する。

 

決してカメラの向こうのデカキンさんらの状況を知ろうとしない。

見るのを断る。18才少年の心理は慎重で、不気味さ不快なことを

予測した時、主体的に経験を避けたくなる生物の防衛本能が

そこにある、というように受け取れた。

 不愉快な経験が、時に影を落とす記憶になること、

他愛なく、虚しい行動(出会いサイトでの危険性)から

負の記憶や経験を作ってしまうだろう想像と、

罪悪感があっただろうか。

 馬鹿らしい動画では深く分析しても意味がないかもしれない。

しかし、時代が変わり教育も大きく変わってきている

若い世代の日本人にも慎重さが根源に

具わっていることを感じた次第。少々大げさか…。

 

仮に、欧米系男性ならあんなふうに拒むだろうか…と思ったり。

彼らの好奇心は日本人よりずっと旺盛で、恐いもの知らずで、

好奇心や冒険心で、恐怖心を突破する者を勇者として、

賞賛する。

女性の顔がどんなふうなのか、どんな記憶になろうが、

危険を冒しても好奇心を満たすことを善とする感覚。

ヒロイズムが付着して、好奇心が暴走し名誉欲にすり替わる。

 

YouTubeを視聴するこちら側は客観の立場である。

デカキンさんの好奇心と18才少年の恐怖心がせめぎ合って、

もし少年が画面の向こうにいる29才の違う生き物?!みたいな

女装の彼を見ることにした時、事の顛末が少年に証されたとしても、

それはそれで笑えただろうし。

恐怖心と好奇心を客観的に見た時、そこにドラマがあるんだなぁ、と。

 

 

好奇心を優先する時の「動機」が、

自己顕示欲なのか、命の源からなのか。

 

恐怖心が勝る時の「動機」が、

罪悪感からなのか、知恵なのか。

 

 

 

話は飛躍するが、環境破壊の根っこは自己顕示欲からの

好奇心の行き過ぎだろうな、と思ったりする。

 

好奇心を制御するはずの恐怖心を突破した時、

自己顕示欲が暴走し、自然を人間の都合に作り変える

ための、研究や生産を繰り返し、めぐりめぐって

世界中の自然破壊の発端という気がする。

 

禁忌や恐怖心を超えてしまう好奇心。

人工的な欧州人勢の自己顕示欲を重ね、

見えてしまうのである。(目には見えないが…)

 

 

上記にあるTEDの動画は、マクロやミクロ世界、

極一瞬や長時間の可視化を技術で実現した。

まつげやカタツムリの寄生虫の接写には驚いた。

梟の羽ばたく力強さ、トンボの羽の絶妙な動きが超スローで、

自然界の神業が可視できた気がする。

この先、分子原子の動きを映像化でき、

医療に応用できる、と確信を深めていた。

 分子原子レベルの微小機械で、遺伝子を修復する

未来の技術への展望か…。

 

意識がこの世界、三次元を生み出しているという。

脳が編み出した道具を使って肉体を変化させるのではなく、

人の意識を変えることの方がずっと合理的ではないか、と。

半ばあきれ顔で、このTED動画を視聴した。

 

野生植物は農薬や化学肥料を与えなくても、豊かに育つ。

人工環境であるほど、植物、生物は手を加えなくてはならない。

 

人為的に治療や修復すれば、更に問題が増えることは、

もうイヤというほど経験したはずなのに。

まだ、未だ同じ発想か、と。

 

つまり、見えることを追求し続けても堂々巡りで、

肉眼で素粒子が見えるよう、意識を変容させるのが、

生物としての人間の歩むべき進化、という気がする。

 

外的世界の科学技術の進歩を目指せば目指す程、

自然に犠牲を払わせて、問題を作り続けるのだろう。

 

この動画では人類の生き方、生命、宇宙の神秘への感動が、

ひとつのメッセージ、体のいい常套句だ。

 

人に具わっているはずの感じる力、

五感や第六感のような体感、内なる感動や創造力ではなく、

ごく一部の人間だけが磨き続ける技術進歩に、感心しただけであった。

彼らの、見る、見せるための物質的技術努力には敬服するが、

なぜだか虚しく感じてしまう。そこまでしたいのか…と。

 

 

ちなみに、温暖化の喧伝用に南極北極の氷が

崩れるシーンを繰り返す映像のように、

自然界の現象の映像をステレオタイプ的に、

多くの人間にイメージを刷込む不気味さもある。

 

 

見えない世界は必要な範囲に留め、心の眼で見えるまで、

見なくていいような気もする。

中世の欧州の人体解剖が発端か…。

 

保守的なことを言っているかもしれないが、

慎みというか、自制と自在のような…意識が

生物には不可欠と思うのだ

 

多様な感じる能力が肉体に具わってこそ、

いや、取り戻すことだとも思う。

 

 

世界的な権威の業界に、ちっぽけな意見を持っても仕方が無いけれども。

欧州人勢力、彼らの目指す進歩の方向性の意味がわからん。。。(苦笑)

 

 

科学技術進歩、カメラの超精度化によって、

寄生虫にまた寄生する微生物を微生物に寄生する微々生物…という

入れ子状態のミクロ世界を

映像として見ようとする、果てしない好奇心。

 

人工的彼らは、自身の好奇心がカメラで可視できるまで、

それを続けるつもりなのだろう。 ……か?

 

と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

digitalcast.jp

好奇心へのぎもん

 

 

好奇心も恐怖心も出所は同じだ、とこの頃の私はそう思う。

 

恐怖心のメリットは、自制心慎ましさ知恵を育てる。
好奇心のメリットは、解放感逞しさ知性を養う。


育てる、養う、ことができる心理的成長、あるいは理性的な自在性は
自己の意識の枠を緩め広げ、より大きな

“ウチュウ的な融合へのファクターで、

あろうか。
(あはっ。。。ナニかっこつけてんの?!^^;)

 


現代社会の認識では、好奇心は◯。恐怖心は×。
…のような判断は案外…、否ひどく、短絡的なもので。


動物を植物を観察するとおそらく解るのは、
自制と自在を巧みに使い分けている。

 

 

人間界の意識についての認識は、未だ発展途上か、むしろ退化への道程で…。


好奇心(光の部分・宇宙空間では、ほんのわずかな現象・物理次元の比喩)

だけが、礼賛されている気がする。

それこそがイルミ的な西洋礼賛病理”と、思う。

 

見る・見える”という能力、

更には“見せる・見られるという我執の感情が、

果たして宇宙(意識)で、

どれほどの意味を持つのか???という問い、、、でもある。)

 

 


植物動物など…人間以外の、、、

命を観察し、心眼で見極めると、

重ねて言うが、きっと自制と自在が複雑に
絡み合って、この限り在る三次元での生を全うしているのだ、と…。
思われる。

 

もっと、自然をゆっくりじっくり丁寧に感じながら生きることが、

即ち、この地上で与えられた時間と空間…の生き様、

人の有り様だ…、と思われる。

 

 

 

 

 

おすすめ ザワークラウト

 

 

ずぅっと欧州勢を批判している。が、

それは中世以降のユダキリ教選民思想勢力を指していて、

一般の普通に生きている欧州の人たちは、

むしろ被害者&白人種優生の差別意識を植え付けられているだけな訳で。

まだ、魔女狩り以前の欧州に精霊信仰があった、

そして欧州の森林が豊かだった時代

(〜中世キリスト教会を建立するために森林破壊)は、

素朴な民族だったのだろうなぁ、と思っている。

 

 

そうは言っても、常に戦乱が絶えない地域で、

何より、奴隷VS貴族という、

古代から差別が露骨な階級社会だったから、

一般人の生活は、疲弊していただろうことを想像してしまう。

遺憾なことダ…。

 

と、前置きは長くなったが、キャベツはかなり現代日本の台所でも

有難い野菜だと思う。酵素たっぷり整胃腸作用があり、

肉食や油分の多い食生活に救いとなる有難い野菜のひとつだ。

アブラナ科キャベツのルーツは他情報参照を…)

 

 

「自己観察」が必要だと前々回の記事に書いたのだが、

試してみるのもいいかもしれないのは、キャベツなどの

生野菜を一切食べずに、揚げ物をたっぷり食べてみる自虐的な実験だ。

翌日から数日間、おそらく胃腸や排便の不快感不都合、

更に咳などに見舞われるだろうか。

体調がよろしくない状態になる、と思われる。

 

そして体調を狂わせたところで、まずは食事の始めに

キャベツをしっかり食べてから、揚げ物や肉類を食べてみる…。

胃腸のもたれる感じが緩和されることに

気付くのではないだろうか。

キャベツパワ〜その威力を知るのではないか…と。

(って、私はそこまで極端なことはしてません。

無責任発言デスが、あしからず。m(_ _)m)

 

 

何を食べるかを意識して、体調の様子を記憶し重ねていくことは、

自身を知ること、という気がする。だが、厄介なのは

工場で作られた食品

(インスタン・簡易調味料・トレトルト・冷凍・菓子等)だ。

昔から素材を加工する食物とは別)

 

 

 

添加物、薬品や油脂等から受ける影響は、

数〜数十年経て慢性として表面化してくる。

 

即、体調を崩す急性にばかり視点を向けさせ、異常な衛生管理が、

かえって複雑な慢性病を生み出している。それを思えば、

特に大企業が煽動する食品(中小企業も原料は大企業が仕入れ先な訳で)の

大半、「工場で製造された食品」は、食べないのが賢明だろう。

 

 

そんな日々の「自己(自身)観察」は、暴飲暴食が

できなくなってくる中年以降に役立つ知恵だと思う。

 

 

で、ザワークラウトである。

その由来は中世の大航海時代に肉食に偏った船乗りたちが、

壊血症で多数の犠牲者が出て、後の航海にキャベツの塩漬け持参し

食べるようになってから、壊血症が無くなった…とかいう話がある。

(航海は後悔っておやじギャグじゃん。汗ーー;)

 

ヨーロッパ黒貴族らによる奴隷支配勃興期に、

発生した知恵というのだから、

複雑な気分になるけれども…。

 

が、人類の知恵は共有するものとして、

現代では良しとしようか。

 

日本史教育では江戸社会の隠れキリシタン断罪ばかりをすり込み、

江戸社会以前の鎖国政策に至った理由、真相を曖昧にしている。

 

中世1549年ザビエルが日本に来た時以降、

イ工ズス会が日本各地の寺社を破壊し日本人の暮らしを脅かしていた。

獣の如き扱いで若き日本人を労働奴隷、性奴隷、傭兵として、

欧州人が世界中に二束三文で売買し続けた約50年を日本史で全く教えない。

私たち先祖の史実。その出来事に思いをはせると、泣けてくる。

また、伝えない偽日本史教育に憤懣やるかたない思いである。

 

つまり、世界中で強奪強姦破壊の暴挙の上に成立った

史実の欧州社会や、隠れ蓑となったキ リスト教思想を有難がる

近代現代の日本人は、無知で節操がないという内省が必要だ。

史実を知れば憧憬や尊敬に値しない。

欧州の歴史や文化を妄信的に有難がるのは、

人として、地球人として無知で軽薄なことではなかろうか。

 

近代以降、物質的進歩発展という考え方を教育やマスコミで

礼賛したことも過ちの一つかも知れない。

 

近代西洋文化の確立(貴族以外の大衆も文化に触れる社会)に

強く影響を与えた、ジャポニズムと呼ばれる動向がある。

が、それは日本の美術品群が訪日欧州人により、

二束三文で流失したからでもある。

 

西洋礼賛は、知識の浅薄さと思慮の軽薄さを

自ら明かしていることにもなる。

 

 

 **********************

 

さて、

最近やっと、人さまにお知らせできる程度に作る回数を重ねた、

「生キャベツ塩揉み発酵漬け」…の、ザワークラウト

 

作り方は…。キャベツ1個でも半分でも1/4でもよく。

(私は葉を一枚づつはがして作るのだが)

千切り(ざく切りでも千切っても良さそう。やったことは無い)にして、

1個なら小さじ1〜2杯、半分なら小さじ1、と

キャベツの重さの1〜2%の塩(自然塩が良いと思う)を

まぶし、3〜5分揉む。

(10分位でもいい。揉む程、柔らかくなると思う…。大変だけど。)

 

 

キャベツの汁が出て来てしんなりすれば、できあがり。

キャラウェイシード(キャラウェイ:セリ科:和名ヒメウイキョウ)を

入れるのが一般的で、私もそれに準じて来たが、

最近、入れない方が飽きが来ないというブログ記事も読んだ。

だから、キャラウェーシードのみならず他のハーブ類でも、

入れても入れなくても、風味はお好みでどうぞ、

という感じだろうか。

(ミネラル摂取や防腐力を考慮すると入れるのもいいかな?!)

 

 

 

しんなりしたキャベツと揉んだ汁を

清潔に洗った(乾燥不要だと思う)蓋付きの瓶に

(ガラスや陶器が良い。無ければいっそマグカップにお皿で蓋でもいいかも。)

入れて、汁がキャベツを覆わなければ、お水を加えキャベツが

汁に浸るようにし、蓋を閉じる。

発酵が始まるとキャベツと水がせり上がってくるので、

容器の8割くらいまでの量を入れた方がいい気がする。

パンパンに詰めると汁がこぼれてくる。

 

2〜3日で発酵が始まる。時々、蓋を開けガスを抜く。

放っておくと、蓋が吹っ飛んでいる。

簡単に作れる発酵漬だ。が、単に簡単便利なことを

おススメしているのではなく、

塩で揉めば水が出てくるのは細胞の浸透圧。

徐々に発酵していくのも、生の野菜だからこその酵素がある。

そして植物は元来、殺菌力も具わっていることも

台所で経験的に解ってくると、容器の殺菌処理やら、

どんな容器が妥当かを自分で判断できるようになる。

 

レシピを鵜呑みにしたところで、本質や基本を掴まないと

自分の知恵として、使いこなせない気がする。

で、シンプルな漬物の試行錯誤は役立つと思われる。

 

話は戻し…。

5日〜1週間位から、酸っぱいキャベツ漬けが食べられる。

3週間位は常温で私は保存している。

 

生キャベツを加熱すると、当然だが酵素が壊れるので、

酢漬けの加熱キャベツ”と、ザワークラウトは別物。

生キャベツ塩揉みは、キャベツの酵素で発酵するものなので…。

 

かつ、栄養的にも生キャベツ塩揉み発酵”の状態が、

特に身体「腸」に良いのだろう。

 

 

夏、その前後の季節は、食品全般が傷みやすいから冷蔵庫で保存し、

それ以外の季節は常温で構わないと思う。

それも自身の経験で判断だ。

 

 

 

肉食、揚げ物の食事が多い人は特に常食するといい、と思う。

肉食揚げ物の食事にキャベツの千切りを加える時間を惜しむ人も、

一気に作って常備食に作り置きしておくと助かる一品だと思う。

作ることと、同時に、管理も単純で、乳酸菌が摂取できるから、

腸に嬉しい。

 

酸っぱくなるので、体内酵素がまだ豊富な子供の味覚には、

合うか解らないけれども。

体内酵素が減少していく大人の味覚には、しっくり来る気がする。

たぶん、腸が欲している味、酵素なのだろうな、と思う。

 

 

だれにでも気軽に発酵した野菜を食べられる一品。

アレンジ(人参やタマネギ、ドレッシング等…)もできるので、

それぞれに楽しめそう。

ってなわけで。

 

ぬか漬け修行中の私にとって、

簡易で重宝なザワークラウト

おすすめデス。

 

おばちゃんの記事デシタ^^;。

 

 

 

 

 

 

 

「愛する」って。(@*@;)

 

 

自己愛について書いたので、

その流れで書き留めようと思う。

 

ただいまという当方別ブログに以前書いたが、

「愛」という言葉が日本で闊歩し始めたのは、

明治以降なのだそうで。

 

 

それまでの日本人にとって「愛」「愛する」とは、

人形を愛する、骨董を愛する”など、

主に、物への執着心を表わす言葉だったという。


(造形として  という字を見ると

偏った心を顕わしている気がしなくもない。)

 

夫を愛する、子供を愛する、恋人を愛する、という言葉は、

家族や親身に“なってしまう人”への執着心で、

生物としてある程度必要だから、

耳障りはない気もする。

 

だが、嫌いな人を愛するとか、

キリスト教聖書の言葉で、隣人を愛せよってな言葉から、

想像してしまうのは、ええ?隣のおっちゃんを愛するのか?

しかも強制かぃ、ってな違和感があるのは、私だけだろうか。

 

(まあ文字通り取り過ぎですが。

それでも「愛」を目指して人間性の完成を促すのが

キリスト教的教義だよな…?!

だから、現実的には困難なんだよね、キリスト教的教義は・・・。)

 

 

仮に、「嫌いな人を愛する」ことが可能になると、

今度はおそらくヒロイズムが発生するから、

更に面倒な状態になる。私のような凡人には到底無理だろうぅぅ。

 

また、「ペットを愛する」ことは違和感のない響きだが、

日々、皆が食す肉を提供してくれる牛豚鶏卵魚野菜…諸々、

命を与えくれて、食べている生物に

「牛を愛する」やら「玉ねぎを愛する」感覚を

ペット同様に持てるなら、食べられないのじゃないかな?

 

「牛“肉を愛する、鶏肉を愛する」ならば、そうなんだぁ〜、と思う。

でもそれって、かなり肉食が好きな人なわけで。

味覚に頓着する自己愛の極みという気もする。

 

 

「愛する」という言葉を検証すると、

まだまだ矛盾が出て来る気がする。

真理を説く宗教教義に矛盾があるのは、

宗教教義が虚偽ということになる。

 

 

 

 

 

子供の頃から、「愛する」という言葉に、

数多の疑問があって、それは今も変わらない。

だから、そんな胡散臭い言葉を使いたくないなぁ…。

 

凡庸に生きる一般庶民の私にとって「愛」なんて

いう言葉で、マスゴミやら何やらかんやら宗教的道徳倫理で、

やたら鼓舞されても、

仰々しいなあ…というのが本音。

 

 

 

思うに、たぶん幕末の切支丹大名の残党が、

倒幕を機に明治からの教育文学芸術論壇で、

国民洗脳(混乱)支配に「愛」という言葉をご多用なさった気がする。

現代ではマスゴミなどで日々、

便利に乱用している、と私は理解している。

 

 

したがって、キリスト教的崇高で有難げな、、、

ヒロイズム、英雄願望を満たすような、、、、

物々しいピラミット型社会を発生させてしまうような、、、

循環(めぐり)を破壊するような、、、、、、

「愛」という言葉を多用する正論者を私は信用しづらい。

そんなに、“力”まないと出てこない、仰々しい

崇高な精神活動は、私にはできそうもない。

 

 

どうも、お互い様という感覚くらいまでしか、

湧き上がってこないのだナ。

声高に唱えるものではない

「お互い様」という感覚。それが、

「循環」じゃぁなかろうか、と。

この三次元の摂理。

気楽でいいような気がする。

所詮、動物だもの。。。

 

 

英雄願望・正義感を満々に持っているなぁと感じる人って、

現実生活では、鬱陶しくなるのは生理的に、

当然のことだと思うんだけど…。

 

ねずミぃー映画、ハリ鬱ッド映画、

マスゴミが流布して来た日本の勧善懲悪のインチキ時代劇や

昨今の韓国映画とか、

その最たる思考汚染脳だなぁ、と思う。

 

ピラミット型価値観で

生き抜いて来た選民意識の油田白人種貴族さんたち。

その思想は

エキサイティングな自己愛ドラマ”を作りたがりぃ、

なんだなぁ、きっと。

 

 

この三次元では、

あなたもわたしも同じように大変よね、って感覚で

充分じゃないか、と。

 

その昔、高圧的な上から目線の暇な欧州貴族の作り上げた、

奴隷を利用支配する社会の価値観”の愛という幻想の、押し売りは、

日本人、いやいや世界中のふつうの人々には、

気付けないようにされているだけで、

本音、本心、

実際のところ、奇妙な印象に映っているはず、では

ないのかなぁ…と。

 

(いきなり飛躍するが、“何とかのために”みたいな洗脳で、

自己愛が作り上げる英雄願望の果てに

例えば…システム販売とか保険とか営業売上げ一位とかで、

大会で賞賛されているのって自己愛な訳で、不気味じゃないかな。

例えば…芸能メディアで年がら年中、自分の姿を写真新聞印刷されて、

ゴミになって踏んづけられる状態に、

本人が心を痛めないのも、自己愛の病理で狂っている気がする。

自尊心がカネに翻弄されている象徴で病だ、と思う。

例えば…有名大学出身者がたくさん輩出されていても、

世の中悪くなるばかり。

頭のいい人間は何のために頭がいいのか???自己愛でしょ。

例えば…貧しい国の子供を写真に収めて、慈善を訴える広告を

見ると、カメラマン自身の家族だったら、

哀し過ぎて決してそんなことしないでしょ。

貧しい生活者を単なるイメージとして処理している。

それは、他者の自尊心を蔑ろにした人権無視でしょ。

広告伝達の意味を明らかに真逆で、勘違いしている。

欧州支配層がカネを収奪する為の、

偽善事業の一環だと、なぜ気付かないのかなぁ、と思う。)

 

 

 

 

自己”と愛”がくっついて、

「自己愛」という言葉に違和感が無いのは

なるほど、と…。

 

 

 

 

 

 

自己観察。 

 

 


時々読む月刊誌に書かれてあったことから、
ふと思うことあって書き留めきたく。

ある女性が病気になって、大好きな甘い物、特に砂糖を制限するも、
我慢するほどにかえって甘い物が食べたくなる。
という悩みに関して、回答者がアドバイスしていたのは、
体調を自分で感じながら食べ物と
向き合うように、ということだった。

それを読んだ後、身近な出来事からも思う事があり、
「自己観察」という言葉が頭に浮かんで来た。
私なりに思う自己観察とは、「自身の心身を客観的に観る」ことと定義してみる。
客観とは長所短所、光と影の有り様をあるがまま観る事。

光と影から醸成される何かを感じること…。


その反意語は、身近な出来事を通じ「自己愛」という言葉かなぁと思った。
自己愛、いわゆるナルシスト。それを喩えるなら、
鏡に映った自分にうっとりする、というイメージだろうか。

 

自分を好きであることは大切なことだけれど、好きという感情が
必ずしも、自身の光と影を冷静に観ているとは限らない。
どちらかと言えば、光の当たった部分だけを見つめる偏った見方。
自己への偏見と言えるだろうか。

鏡を見てうっとりするなら本人だけで済むけれど、
自己愛の所業は、他者の視線や思考を通じ、自分を見て一喜一憂する。
その反応に他者も振り回される自己愛は、不毛な関わりと
共に、生理的な違和感が誰しも具わっているから肯定されない、
できないもの、と思う。


“誰しも具わっている”と感じるのは、私たち生物、更に言えば
三次元で存在するすべては、循環「めぐる」という摂理に則っている、
宇宙の理と思うから…。

潜在意識にそれが具わっている気がする。

 

食べ物の好き嫌いが激しいことを良しとしない訓戒は
光と影を同じように観ることを促しているからだろう。

 

好き”過ぎること」の方が案外に厄介で、
病を作る、問題を発生させる原因になりがちなことを

見過ごしやすいものだ。

 

嫌いという感情には戒める内省が芽生えやすい。

それは罪悪感、嫌悪感という歯止めがあるからだろう。


が、好き過ぎることには歯止めを掛けにくいもの。
肯定感の罠と言ってもいいかもしれない。
「度が過ぎる」ことはどちらにしても良くない、と思われる。

 

自己愛の強さはそんな意味で厄介だ。
そうした自浄力で、生理的に嫌いになる人間の性がある。

 

が、自己愛を批判する人は、反自己愛。つまり自己否定。
自分の影ばかりに目を向け、修正しようとして自信を持てず、
悩み苦しむタイプ。

 

自己愛が強い人(光だけに目を向ける)の方がおめでたいから、

自己否定をする人よりマシだけれども、同じ穴の狢。
その根っこには、羨む、羨ましがられたい、という
優越感と劣等感の感情に振り回される心理であるのだろう。

 

***

浄土真宗正信偈の最終行に「平等施一切同朋菩提心往生安楽国」と
あり、「平等施一切」という言葉がお気に入りだ。
平等を求める、平等を与えんとする正義ではない。
常に「平等」は施されているのだよ、と私はそう
勝手に解釈している。

 

比較はしないこと。

 

「人は人、自分は自分、それぞれ」という区切り、割り切りは
心が中庸でいられる、平常心でいる重要なキーワードだ、と常々思う。

 

で…。

自己愛も自己否定も消耗されていくエネルギー。
それは振り子現象・プラスマイナス・比較の単純な運動性だからである。


循環ではなく、
自分を愛している状態は、自分への執着・単一のエネルギーでしかない。
自分を否定する状態も、同様だ。

自己愛が強い人間は自己否定も強い人間。(ワタシの事。苦笑)


興味、関心、行動、思考…自分のエネルギー蓄積でしかない。
他者・他対象への関わりで変化していくことが宇宙の摂理だと思う。

この地球で無から有への新たな因果を生み出す生物。


自己を愛しても否定しても、

プラスマイナスの運動性しか発生しない。
果てしなき自己葛藤となってしまう。

 

 

自己愛・自己否定。

と、自己観察。

 

 

 

明治以降、19世紀あたりから、

欧州圏勢力・ユダキリ教によって、現代“日本”社会のみならず、

地球全体が、白人優生思想=自己愛病。

 

彼ら御用達マスゴミやユダキリ教的影響下の洗脳教育や洗脳宗教、洗脳倫理、

人生観(ヒロイズム・有名になりたい病)=成功、伝統や血脈・名誉、カネ、

教育宗教道徳の思想(愛・信頼)=尊敬、優秀、立派…、

“西洋礼賛”となって、

世界中みぃ〜んなが振り子現象に没落してしまった、と思う。

 ある意味、欧州(ユダキリの悪知恵はすごいナ…苦笑。

 

 

 

生物みんな、

つながってめぐりめぐって生かされて。

お互いさまだ。

 

ってなわけで…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おせちの料理を日常に

 

 

おせち料理を今年も作った。

が、今回は家族のことがあって分量や種類は控えめになった。
ところで、おせちの内容を見渡すと、

常備菜として食卓にあって良いなぁ重宝だなぁ、と感じるこの頃。

 

例えば“なます”。大根とニンジンを千切りにして

少々の塩揉みをして甘酢(お酢と粗糖など)とゆずの絞り汁と

皮をまぶして多めに作り置きしておく。

冬は大根も人参も甘いし特に日持ちもするから、

たくさん作って冷蔵庫へ。

毎食、生野菜サラダを作るにはお水が冷たいと感じる季節。

根性無しの私には、この一品は助かる。

更には刻み昆布等、白菜やキャベツでアレンジも…。

生の植物の酵素等や発酵した食べ物は腸に不可欠。

 

それから“田作り”。ガス台で作ると30〜40分位フライパンと

にらめっこしなくてはならない。

昔は七輪、火鉢や囲炉裏で作っていただろう。

幸いうちはストーブ派で、かれこれ40年も使い続けている

ストーブの上にフライパンを乗せ、時々かき混ぜれば、

ごまめサマたちは30〜40分後にはサックサクになっている。

そこへ、粗糖(砂糖)を入れかき混ぜた醤油をじゃじゃ〜っとかければ、

一気にしゅわしゅわ〜〜となって出来上がる。(コレハ特ニ楽しい瞬間 *▽*/ )

あとは白ごまを振りかければ完成。
これも保存が効くからたくさん作って冷蔵庫に入れ、

食事の度に箸休めとして重宝する。カルシウムも取れる。

ちなみに、ここ数年は年末にごまめを

余分に買っておくことにした。

(いざという時の保存食にもなるなぁ、と。)

 

その他にも黒豆、叩きごぼう煮しめ、昆布巻き。

(黒豆は結婚後、実母が長年工夫した方法を差し置いて、

ほぼ失敗しない調理法をクックパッドを参考にした。

コレハ現代の利点かぁ。

昆布巻は常備菜として作るなら昆布の佃煮。)

 

江戸時代のおせち料理の品数は今よりずっと少なかったらしい。
おせち料理は元来、素朴な料理で女性の家事に閑暇をくれるもの。

賞味期限をさほど気にしたりせず雑念を省き、

また片付け等の雑用の軽減になろうか。

 

日本人の知恵が詰まった有難い、良質な栄養を含んださりげない日常食。

箸休め、間(あい)の手にもなるわけだ。

温故知新。

 

洋風料理、中華料理、等々が現代日本食の主流で、

今更言うのも憚られるが、それらは舌、味覚の楽しみは

インパクトがあって食卓を華やかに席巻しつつも、

栄養・滋養としてはお粗末だ、と思える。

 

更に、動物性タンパク質や油分が多い料理は、

後片付けの衛生を考えると案外厄介だったり、

使った油の安全性が気がかりで面倒に感じる。

素材・調達・料理・片付け・栄養滋養…と、

全体や本質を考えると、

理に適っていない、合理的ではないのではないか。

よって、作らない訳ではないが最近は、

洋風や中華を時々の楽しみとなって、

以前に比べると作らなくなった。

時代と逆行中。(笑)

 

味の奥行きを演出する箸休めのような“間(ま)を作る

日本らしい味、素朴だが素材や滋養を楽しむ

良質な料理が家庭から姿を消しかけている。

丼ぶりや、大皿一品料理、メインディッシュ、スープ、サラダと言った

短絡した構成、栄養に疑問な調味料・添加物に頼った方法が、

当然になって来ている。

 

 

漬物や佃煮等の食べ物のみならず、あらゆる物が、

人の心と体の活動から生み出されることは激減し、

物品は機械的製造となっている。

 

手間や「暇」を掛けて作る喜び、

「暇」があるからこそ時間を掛けじっくり作業を味わう、

熟成を待つ時の、そこから生まれる楽しみ、

というようなことが、できなくなっている。

“カネの利益、損得”とは無縁の、

「心の喜び」を亡くさせんとするばかりだ。

 

 

(主旨の逆となるが…)ひとことおおい私なので更に、

加えるなら、現代日本人の会話に、“間”が失われつつある。

 

 

昔の人は言葉を話す時、間があった気がする。

ゆったりおっとりしていたように思う。

 

現代の日本人は、英語教育からの影響なのか。

言論支配するマスゴミやら電子機器のせいか。

語彙量・語彙力を重視し過ぎるあまり、

まるで言葉の洪水のような社会で、

行間を読む、間を感じる能力を失いかけ、

かえって心、気持ちが伝わらなくなっている、と感じる。

 

お金と人生時間”が、引換えの現代社会にあっては、

間、余白、奥行き…が削られていく。

食もまた然り。

食物・料理と、会話・文章も繋がっているのだろう。

 

 

当方は言葉の洪水に

加勢しているタイプ、と反省しつつ…。

 

 

 

 

雑感ではなく、雑柑…の季節

 

 

一月半ばになると、そろそろみかんを名残惜しんで食べる頃だ。

あと二週間もすると、みかんの鮮度が落ちしなびて、

二月半ばから三月初旬、店頭から徐々に姿を消す。

変わって二月半ばから四月上旬までは、

雑柑の季節となる。

 

雑柑というと、甘夏、八朔、夏みかん、

伊予柑、ポンカン、デコポン、はるみ、タンドール、文旦…あれこれ思いつく。

色も濃い橙色や薄い黄色や黄緑色と様々で、見るのも楽しい。

 

柑橘類は菜種科と同じように近い種が交配しやすい性質もあって、

種類が豊富になっていく植物らしい。

だから、雑柑という言葉が派生したのだろうか。

 

ところで、雑柑を買う時の注意点を毎春、うっかり忘れ

エラい目に遇うのでここにメモしておこうっと。

 

最も注意すべきは、甘夏である。

早春の頃の甘夏は、爽やかな酸味と甘味のある八朔に比べ、

かなり酸っぱいし、剥きにくい。

「甘い夏みかん」の略したその名は罪なネーミングである。

レモンは酸っぱいことを前提に買うから構わない。だが、

「甘」は、明らかに酸っぱさを隠蔽したい農業者の意図を感じる。

文字につられ、つい買ってしまう自分がいけないと思いつつも、

“酸い夏”に変えて頂きたいものである。

そんなことしたら買う人が減ってしまうだろうが、

長年にわたり業者は、真実を隠してまで売り続けたいのかッ!!?

(って、わたしゃ陰謀論ボケ?大げさダョナ…苦笑。)

三月末から四月頃は甘くなるけどね。。。

 

 ついでに書くと、“伊予柑とポンカン”もその騙し討ちの方法が似ている…、

と思うのであるが、個人的な味覚なので

どうでもよく、長くなるので省略ス。

 

 せいぜい、値段が八朔より少し安いのはなぜ?で、

酸っぱいことを店頭で思い出せばいいだけのこと…か。

(お値段が甘めか^^)

 

 

数年前、家人は知人から十二月にもらった甘夏を即に食べ、

痛烈な酸っぱさ体験のお陰で味覚が崩壊した…という。

家人は甘夏にある意味で感謝している。

それまでは、柑橘類の酸味に抵抗があったらしいが、それを機に

一気に、酸っぱい食べ物への耐性ができてしまったそうな。(笑?)

 

 

それにしても、「甘」はマーケティング的事情だろうが、

「甘夏」「夏みかん」の、“夏”ってなんなの?