ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。脱出!」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

おすすめ ザワークラウト

 

 

ずぅっと欧州勢を批判している。が、

それは中世以降のユダキリ教選民思想勢力を指していて、

一般の普通に生きている欧州の人たちは、

むしろ被害者&白人種優生の差別意識を植え付けられているだけな訳で。

まだ、魔女狩り以前の欧州に精霊信仰があった、

そして欧州の森林が豊かだった時代

(〜中世キリスト教会を建立するために森林破壊)は、

素朴な民族だったのだろうなぁ、と思っている。

 

 

そうは言っても、常に戦乱が絶えない地域で、

何より、奴隷VS貴族という、

古代から差別が露骨な階級社会だったから、

一般人の生活は、疲弊していただろうことを想像してしまう。

遺憾なことダ…。

 

と、前置きは長くなったが、キャベツはかなり現代日本の台所でも

有難い野菜だと思う。酵素たっぷり整胃腸作用があり、

肉食や油分の多い食生活に救いとなる有難い野菜のひとつだ。

アブラナ科キャベツのルーツは他情報参照を…)

 

 

「自己観察」が必要だと前々回の記事に書いたのだが、

試してみるのもいいかもしれないのは、キャベツなどの

生野菜を一切食べずに、揚げ物をたっぷり食べてみる自虐的な実験だ。

翌日から数日間、おそらく胃腸や排便の不快感不都合、

更に咳などに見舞われるだろうか。

体調がよろしくない状態になる、と思われる。

 

そして体調を狂わせたところで、まずは食事の始めに

キャベツをしっかり食べてから、揚げ物や肉類を食べてみる…。

胃腸のもたれる感じが緩和されることに

気付くのではないだろうか。

キャベツパワ〜その威力を知るのではないか…と。

(って、私はそこまで極端なことはしてません。

無責任発言デスが、あしからず。m(_ _)m)

 

 

何を食べるかを意識して、体調の様子を記憶し重ねていくことは、

自身を知ること、という気がする。だが、厄介なのは

工場で作られた食品

(インスタン・簡易調味料・トレトルト・冷凍・菓子等)だ。

昔から素材を加工する食物とは別)

 

 

 

添加物、薬品や油脂等から受ける影響は、

数〜数十年経て慢性として表面化してくる。

 

即、体調を崩す急性にばかり視点を向けさせ、異常な衛生管理が、

かえって複雑な慢性病を生み出している。それを思えば、

特に大企業が煽動する食品(中小企業も原料は大企業が仕入れ先な訳で)の

大半、「工場で製造された食品」は、食べないのが懸命だろう。

 

 

そんな日々の「自己(自身)観察」は、暴飲暴食が

できなくなってくる中年以降に役立つ知恵だと思う。

 

 

で、ザワークラウトである。

その由来は中世の大航海時代に肉食に偏った船乗りたちが、

壊血症で多数の犠牲者が出て、後の航海にキャベツの塩漬け持参し

食べるようになってから、壊血症が無くなった…とかいう話がある。

(航海は後悔っておやじギャグじゃん。汗ーー;)

 

 

奴隷支配最盛期に発生した知恵というのだから、

日本人奴隷のことも想像すると、複雑な気分だけれども…。

人類の知恵は共有するものとして、現代では良しとしよう。(大げさ?)

 

 

最近やっと、人さまにお知らせできる程度に作る回数を重ねた、

「生キャベツ塩揉み発酵漬け」…の、ザワークラウト

 

作り方は…。キャベツ1個でも半分でも1/4でもよく。

(私は葉を一枚づつはがして作るのだが)

千切り(ざく切りでも千切っても良さそう。やったことは無い)にして、

1個なら小さじ1〜2杯、半分なら小さじ1、と

キャベツの重さの1〜2%の塩(自然塩が良いと思う)を

まぶし、3〜5分揉む。

(10分位でもいい。揉む程、柔らかくなると思う…。大変だけど。)

 

 

キャベツの汁が出て来てしんなりすれば、できあがり。

キャラウェイシード(キャラウェイ:セリ科:和名ヒメウイキョウ)を

入れるのが一般的で、私もそれに準じて来たが、

最近、入れない方が飽きが来ないというブログ記事も読んだ。

だから、キャラウェーシードのみならず他のハーブ類でも、

入れても入れなくても、風味はお好みでどうぞ、

という感じだろうか。

(ミネラル摂取や防腐力を考慮すると入れるのもいいかな?!)

 

 

 

しんなりしたキャベツと揉んだ汁を

清潔に洗った(乾燥不要だと思う)蓋付きの瓶に

(ガラスや陶器が良い。無ければいっそマグカップにお皿で蓋でもいいかも。)

入れて、汁がキャベツを覆わなければ、お水を加えキャベツが

汁に浸るようにし、蓋を閉じる。

発酵が始まるとキャベツと水がせり上がってくるので、

容器の8割くらいまでの量を入れた方がいい気がする。

パンパンに詰めると汁がこぼれてくる。

 

2〜3日で発酵が始まる。時々、蓋を開けガスを抜く。

放っておくと、蓋が吹っ飛んでいる。

簡単に作れる発酵漬だ。が、単に簡単便利なことを

おススメしているのではなく、

塩で揉めば水が出てくるのは細胞の浸透圧。

徐々に発酵していくのも、生の野菜だからこその酵素がある。

そして植物は元来、殺菌力も具わっていることも

台所で経験的に解ってくると、容器の殺菌処理やら、

どんな容器が妥当かを自分で判断できるようになる。

 

レシピを鵜呑みにしたところで、本質や基本を掴まないと

自分の知恵として、使いこなせない気がする。

で、シンプルな漬物の試行錯誤は役立つと思われる。

 

話は戻し…。

5日〜1週間位から、酸っぱいキャベツ漬けが食べられる。

3週間位は常温で私は保存している。

 

生キャベツを加熱すると、当然だが酵素が壊れるので、

酢漬けの加熱キャベツ”と、ザワークラウトは別物。

生キャベツ塩揉みは、キャベツの酵素で発酵するものなので…。

 

かつ、栄養的にも生キャベツ塩揉み発酵”の状態が、

特に身体「腸」に良いのだろう。

 

 

夏、その前後の季節は、食品全般が傷みやすいから冷蔵庫で保存し、

それ以外の季節は常温で構わないと思う。

それも自身の経験で判断だ。

 

 

 

肉食、揚げ物の食事が多い人は特に常食するといい、と思う。

肉食揚げ物の食事にキャベツの千切りを加える時間を惜しむ人も、

一気に作って常備食に作り置きしておくと助かる一品だと思う。

作ることと、同時に、管理も単純で、乳酸菌が摂取できるから、

腸に嬉しい。

 

酸っぱくなるので、体内酵素がまだ豊富な子供の味覚には、

合うか解らないけれども。

体内酵素が減少していく大人の味覚には、しっくり来る気がする。

たぶん、腸が欲している味、酵素なのだろうな、と思う。

 

 

だれにでも気軽に発酵した野菜を食べられる一品。

アレンジ(人参やタマネギ、ドレッシング等…)もできるので、

それぞれに楽しめそう。

ってなわけで。

 

ぬか漬け修行中の私にとって、

簡易で重宝なザワークラウト

おすすめデス。

 

おばちゃんの記事デシタ^^;。

 

 

 

 

 

 

 

「愛する」って。(@*@;)

 

 

自己愛について書いたので、

その流れで書き留めようと思う。

 

ただいまという当方別ブログに以前書いたが、

「愛」という言葉が日本で闊歩し始めたのは、

明治以降なのだそうで。

 

 

それまでの日本人にとって「愛」「愛する」とは、

人形を愛する、骨董を愛する”など、

主に、物への執着心を表わす言葉だったという。


(造形として  という字を見ると

偏った心を顕わしている気がしなくもない。)

 

夫を愛する、子供を愛する、恋人を愛する、という言葉は、

家族や親身に“なってしまう人”への執着心で、

生物としてある程度必要だから、

耳障りはない気もする。

 

だが、嫌いな人を愛するとか、

キリスト教聖書の言葉で、隣人を愛せよってな言葉から、

想像してしまうのは、ええ?隣のおっちゃんを愛するのか?

しかも強制かぃ、ってな違和感があるのは、私だけだろうか。

 

(まあ文字通り取り過ぎですが。

それでも「愛」を目指して人間性の完成を促すのが

キリスト教的教義だよな…?!

だから、現実的には困難なんだよね、キリスト教的教義は・・・。)

 

 

仮に、「嫌いな人を愛する」ことが可能になると、

今度はおそらくヒロイズムが発生するから、

更に面倒な状態になる。私のような凡人には到底無理だろうぅぅ。

 

また、「ペットを愛する」ことは違和感のない響きだが、

日々、皆が食す肉を提供してくれる牛豚鶏卵魚野菜…諸々、

命を与えくれて、食べている生物に

「牛を愛する」やら「玉ねぎを愛する」感覚を

ペット同様に持てるなら、食べられないのじゃないかな?

 

「牛“肉を愛する、鶏肉を愛する」ならば、そうなんだぁ〜、と思う。

でもそれって、かなり肉食が好きな人なわけで。

味覚に頓着する自己愛の極みという気もする。

 

 

「愛する」という言葉を検証すると、

まだまだ矛盾が出て来る気がする。

真理を説く宗教教義に矛盾があるのは、

宗教教義が虚偽ということになる。

 

 

 

 

 

子供の頃から、「愛する」という言葉に、

数多の疑問があって、それは今も変わらない。

だから、そんな胡散臭い言葉を使いたくないなぁ…。

 

凡庸に生きる一般庶民の私にとって「愛」なんて

いう言葉で、マスゴミやら何やらかんやら宗教的道徳倫理で、

やたら鼓舞されても、

仰々しいなあ…というのが本音。

 

 

 

思うに、たぶん幕末の切支丹大名の残党が、

倒幕を機に明治からの教育文学芸術論壇で、

国民洗脳(混乱)支配に「愛」という言葉をご多用なさった気がする。

現代ではマスゴミなどで日々、

便利に乱用している、と私は理解している。

 

 

したがって、キリスト教的崇高で有難げな、、、

ヒロイズム、英雄願望を満たすような、、、、

物々しいピラミット型社会を発生させてしまうような、、、

循環(めぐり)を破壊するような、、、、、、

「愛」という言葉を多用する正論者を私は信用しづらい。

そんなに、“力”まないと出てこない、仰々しい

崇高な精神活動は、私にはできそうもない。

 

 

どうも、お互い様という感覚くらいまでしか、

湧き上がってこないのだナ。

声高に唱えるものではない

「お互い様」という感覚。それが、

「循環」じゃぁなかろうか、と。

この三次元の摂理。

気楽でいいような気がする。

所詮、動物だもの。。。

 

 

英雄願望・正義感を満々に持っているなぁと感じる人って、

現実生活では、鬱陶しくなるのは生理的に、

当然のことだと思うんだけど…。

 

ねずミぃー映画、ハリ鬱ッド映画、

マスゴミが流布して来た日本の勧善懲悪のインチキ時代劇や

昨今の韓国映画とか、

その最たる思考汚染脳だなぁ、と思う。

 

ピラミット型価値観で

生き抜いて来た選民意識の油田白人種貴族さんたち。

その思想は

エキサイティングな自己愛ドラマ”を作りたがりぃ、

なんだなぁ、きっと。

 

 

この三次元では、

あなたもわたしも同じように大変よね、って感覚で

充分じゃないか、と。

 

その昔、高圧的な上から目線の暇な欧州貴族の作り上げた、

奴隷を利用支配する社会の価値観”の愛という幻想の、押し売りは、

日本人、いやいや世界中のふつうの人々には、

気付けないようにされているだけで、

本音、本心、

実際のところ、奇妙な印象に映っているはず、では

ないのかなぁ…と。

 

(いきなり飛躍するが、“何とかのために”みたいな洗脳で、

自己愛が作り上げる英雄願望の果てに

例えば…システム販売とか保険とか営業売上げ一位とかで、

大会で賞賛されているのって自己愛な訳で、不気味じゃないかな。

例えば…芸能メディアで年がら年中、自分の姿を写真新聞印刷されて、

ゴミになって踏んづけられる状態に、

本人が心を痛めないのも、自己愛の病理で狂っている気がする。

自尊心がカネに翻弄されている象徴で病だ、と思う。

例えば…有名大学出身者がたくさん輩出されていても、

世の中悪くなるばかり。

頭のいい人間は何のために頭がいいのか???自己愛でしょ。

例えば…貧しい国の子供を写真に収めて、慈善を訴える広告を

見ると、カメラマン自身の家族だったら、

哀し過ぎて決してそんなことしないでしょ。

貧しい生活者を単なるイメージとして処理している。

それは、他者の自尊心を蔑ろにした人権無視でしょ。

広告伝達の意味を明らかに真逆で、勘違いしている。

欧州支配層がカネを収奪する為の、

偽善事業の一環だと、なぜ気付かないのかなぁ、と思う。)

 

 

 

 

自己”と愛”がくっついて、

「自己愛」という言葉に違和感が無いのは

なるほど、と…。

 

 

 

 

 

 

自己観察。 

 

 


時々読む月刊誌に書かれてあったことから、
ふと思うことあって書き留めきたく。

ある女性が病気になって、大好きな甘い物、特に砂糖を制限するも、
我慢するほどにかえって甘い物が食べたくなる。
という悩みに関して、回答者がアドバイスしていたのは、
体調を自分で感じながら食べ物と
向き合うように、ということだった。

それを読んだ後、身近な出来事からも思う事があり、
「自己観察」という言葉が頭に浮かんで来た。
私なりに思う自己観察とは、「自身の心身を客観的に観る」ことと定義してみる。
客観とは長所短所、光と影の有り様をあるがまま観る事。

光と影から醸成される何かを感じること…。


その反意語は、身近な出来事を通じ「自己愛」という言葉かなぁと思った。
自己愛、いわゆるナルシスト。それを喩えるなら、
鏡に映った自分にうっとりする、というイメージだろうか。

 

自分を好きであることは大切なことだけれど、好きという感情が
必ずしも、自身の光と影を冷静に観ているとは限らない。
どちらかと言えば、光の当たった部分だけを見つめる偏った見方。
自己への偏見と言えるだろうか。

鏡を見てうっとりするなら本人だけで済むけれど、
自己愛の所業は、他者の視線や思考を通じ、自分を見て一喜一憂する。
その反応に他者も振り回される自己愛は、不毛な関わりと
共に、生理的な違和感が誰しも具わっているから肯定されない、
できないもの、と思う。


“誰しも具わっている”と感じるのは、私たち生物、更に言えば
三次元で存在するすべては、循環「めぐる」という摂理に則っている、
宇宙の理と思うから…。

潜在意識にそれが具わっている気がする。

 

食べ物の好き嫌いが激しいことを良しとしない訓戒は
光と影を同じように観ることを促しているからだろう。

 

好き”過ぎること」の方が案外に厄介で、
病を作る、問題を発生させる原因になりがちなことを

見過ごしやすいものだ。

 

嫌いという感情には戒める内省が芽生えやすい。

それは罪悪感、嫌悪感という歯止めがあるからだろう。


が、好き過ぎることには歯止めを掛けにくいもの。
肯定感の罠と言ってもいいかもしれない。
「度が過ぎる」ことはどちらにしても良くない、と思われる。

 

自己愛の強さはそんな意味で厄介だ。
そうした自浄力で、生理的に嫌いになる人間の性がある。

 

が、自己愛を批判する人は、反自己愛。つまり自己否定。
自分の影ばかりに目を向け、修正しようとして自信を持てず、
悩み苦しむタイプ。

 

自己愛が強い人(光だけに目を向ける)の方がおめでたいから、

自己否定をする人よりマシだけれども、同じ穴の狢。
その根っこには、羨む、羨ましがられたい、という
優越感と劣等感の感情に振り回される心理であるのだろう。

 

***

浄土真宗正信偈の最終行に「平等施一切同朋菩提心往生安楽国」と
あり、「平等施一切」という言葉がお気に入りだ。
平等を求める、平等を与えんとする正義ではない。
常に「平等」は施されているのだよ、と私はそう
勝手に解釈している。

 

比較はしないこと。

 

「人は人、自分は自分、それぞれ」という区切り、割り切りは
心が中庸でいられる、平常心でいる重要なキーワードだ、と常々思う。

 

で…。

自己愛も自己否定も消耗されていくエネルギー。
それは振り子現象・プラスマイナス・比較の単純な運動性だからである。


循環ではなく、
自分を愛している状態は、自分への執着・単一のエネルギーでしかない。
自分を否定する状態も、同様だ。

自己愛が強い人間は自己否定も強い人間。(ワタシの事。苦笑)


興味、関心、行動、思考…自分のエネルギー蓄積でしかない。
他者・他対象への関わりで変化していくことが宇宙の摂理だと思う。

この地球で無から有への新たな因果を生み出す生物。


自己を愛しても否定しても、

プラスマイナスの運動性しか発生しない。
果てしなき自己葛藤となってしまう。

 

 

自己愛・自己否定。

と、自己観察。

 

 

 

明治以降、19世紀あたりから、

欧州圏勢力・ユダキリ教によって、現代“日本”社会のみならず、

地球全体が、白人優生思想=自己愛病。

 

彼ら御用達マスゴミやユダキリ教的影響下の洗脳教育や洗脳宗教、洗脳倫理、

人生観(ヒロイズム・有名になりたい病)=成功、伝統や血脈・名誉、カネ、

教育宗教道徳の思想(愛・信頼)=尊敬、優秀、立派…、

“西洋礼賛”となって、

世界中みぃ〜んなが振り子現象に没落してしまった、と思う。

 ある意味、欧州(ユダキリの悪知恵はすごいナ…苦笑。

 

 

 

生物みんな、

つながってめぐりめぐって生かされて。

お互いさまだ。

 

ってなわけで…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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おせちの料理を日常に

 

 

おせち料理を今年も作った。

が、今回は家族のことがあって分量や種類は控えめになった。
ところで、おせちの内容を見渡すと、

常備菜として食卓にあって良いなぁ重宝だなぁ、と感じるこの頃。

 

例えば“なます”。大根とニンジンを千切りにして

少々の塩揉みをして甘酢(お酢と粗糖など)とゆずの絞り汁と

皮をまぶして多めに作り置きしておく。

冬は大根も人参も甘いし特に日持ちもするから、

たくさん作って冷蔵庫へ。

毎食、生野菜サラダを作るにはお水が冷たいと感じる季節。

根性無しの私には、この一品は助かる。

更には刻み昆布等、白菜やキャベツでアレンジも…。

生の植物の酵素等や発酵した食べ物は腸に不可欠。

 

それから“田作り”。ガス台で作ると30〜40分位フライパンと

にらめっこしなくてはならない。

昔は七輪、火鉢や囲炉裏で作っていただろう。

幸いうちはストーブ派で、かれこれ40年も使い続けている

ストーブの上にフライパンを乗せ、時々かき混ぜれば、

ごまめサマたちは30〜40分後にはサックサクになっている。

そこへ、粗糖(砂糖)を入れかき混ぜた醤油をじゃじゃ〜っとかければ、

一気にしゅわしゅわ〜〜となって出来上がる。(コレハ特ニ楽しい瞬間 *▽*/ )

あとは白ごまを振りかければ完成。
これも保存が効くからたくさん作って冷蔵庫に入れ、

食事の度に箸休めとして重宝する。カルシウムも取れる。

ちなみに、ここ数年は年末にごまめを

余分に買っておくことにした。

(いざという時の保存食にもなるなぁ、と。)

 

その他にも黒豆、叩きごぼうや煮しめ、昆布巻き。

(黒豆は結婚後、実母が長年工夫した方法を差し置いて、

ほぼ失敗しない調理法をクックパッドを参考にした。

コレハ現代の利点かぁ。

昆布巻は常備菜として作るなら昆布の佃煮。)

 

江戸時代のおせち料理の品数は今よりずっと少なかったらしい。
おせち料理は元来、素朴な料理で女性の家事に閑暇をくれるもの。

賞味期限をさほど気にしたりせず雑念を省き、

また片付け等の雑用の軽減になろうか。

 

日本人の知恵が詰まった有難い、良質な栄養を含んださりげない日常食。

箸休め、間(あい)の手にもなるわけだ。

温故知新。

 

洋風料理、中華料理、等々が現代日本食の主流で、

今更言うのも憚られるが、それらは舌、味覚の楽しみは

インパクトがあって食卓を華やかに席巻しつつも、

栄養・滋養としてはお粗末だ、と思える。

 

更に、動物性タンパク質や油分が多い料理は、

後片付けの衛生を考えると案外厄介だったり、

使った油の安全性が気がかりで面倒に感じる。

素材・調達・料理・片付け・栄養滋養…と、

全体や本質を考えると、

理に適っていない、合理的ではないのではないか。

よって、作らない訳ではないが最近は、

洋風や中華を時々の楽しみとなって、

以前に比べると作らなくなった。

時代と逆行中。(笑)

 

味の奥行きを演出する箸休めのような“間(ま)を作る

日本らしい味、素朴だが素材や滋養を楽しむ

良質な料理が家庭から姿を消しかけている。

丼ぶりや、大皿一品料理、メインディッシュ、スープ、サラダと言った

短絡した構成、栄養に疑問な調味料・添加物に頼った方法が、

当然になって来ている。

 

 

漬物や佃煮等の食べ物のみならず、あらゆる物が、

人の心と体の活動から生み出されることは激減し、

物品は機械的製造となっている。

 

手間や「暇」を掛けて作る喜び、

「暇」があるからこそ時間を掛けじっくり作業を味わう、

熟成を待つ時の、そこから生まれる楽しみ、

というようなことが、できなくなっている。

“カネの利益、損得”とは無縁の、

「心の喜び」を亡くさせんとするばかりだ。

 

 

(主旨の逆となるが…)ひとことおおい私なので更に、

加えるなら、現代日本人の会話に、“間”が失われつつある。

 

 

昔の人は言葉を話す時、間があった気がする。

ゆったりおっとりしていたように思う。

 

現代の日本人は、英語教育からの影響なのか。

言論支配するマスゴミやら電子機器のせいか。

語彙量・語彙力を重視し過ぎるあまり、

まるで言葉の洪水のような社会で、

行間を読む、間を感じる能力を失いかけ、

かえって心、気持ちが伝わらなくなっている、と感じる。

 

お金と人生時間”が、引換えの現代社会にあっては、

間、余白、奥行き…が削られていく。

食もまた然り。

食物・料理と、会話・文章も繋がっているのだろう。

 

 

当方は言葉の洪水に

加勢しているタイプ、と反省しつつ…。

 

 

 

 

雑感ではなく、雑柑…の季節

 

 

一月半ばになると、そろそろみかんを名残惜しんで食べる頃だ。

あと二週間もすると、みかんの鮮度が落ちしなびて、

二月半ばから三月初旬、店頭から徐々に姿を消す。

変わって二月半ばから四月上旬までは、

雑柑の季節となる。

 

雑柑というと、甘夏、八朔、夏みかん、

伊予柑、ポンカン、デコポン、はるみ、タンドール、文旦…あれこれ思いつく。

色も濃い橙色や薄い黄色や黄緑色と様々で、見るのも楽しい。

 

柑橘類は菜種科と同じように近い種が交配しやすい性質もあって、

種類が豊富になっていく植物らしい。

だから、雑柑という言葉が派生したのだろうか。

 

ところで、雑柑を買う時の注意点を毎春、うっかり忘れ

エラい目に遇うのでここにメモしておこうっと。

 

最も注意すべきは、甘夏である。

早春の頃の甘夏は、爽やかな酸味と甘味のある八朔に比べ、

かなり酸っぱいし、剥きにくい。

「甘い夏みかん」の略したその名は罪なネーミングである。

レモンは酸っぱいことを前提に買うから構わない。だが、

「甘」は、明らかに酸っぱさを隠蔽したい農業者の意図を感じる。

文字につられ、つい買ってしまう自分がいけないと思いつつも、

“酸い夏”に変えて頂きたいものである。

そんなことしたら買う人が減ってしまうだろうが、

長年にわたり業者は、真実を隠してまで売り続けたいのかッ!!?

(って、わたしゃ陰謀論ボケ?大げさダョナ…苦笑。)

三月末から四月頃は甘くなるけどね。。。

 

 ついでに書くと、“伊予柑とポンカン”もその騙し討ちの方法が似ている…、

と思うのであるが、個人的な味覚なので

どうでもよく、長くなるので省略ス。

 

 せいぜい、値段が八朔より少し安いのはなぜ?で、

酸っぱいことを店頭で思い出せばいいだけのこと…か。

(お値段が甘めか^^)

 

 

数年前、家人は知人から十二月にもらった甘夏を即に食べ、

痛烈な酸っぱさ体験のお陰で味覚が崩壊した…という。

家人は甘夏にある意味で感謝している。

それまでは、柑橘類の酸味に抵抗があったらしいが、それを機に

一気に、酸っぱい食べ物への耐性ができてしまったそうな。(笑?)

 

 

それにしても、「甘」はマーケティング的事情だろうが、

「甘夏」「夏みかん」の、“夏”ってなんなの?

 

 

 

 

 

人間の屍は地球の最高の栄養?!〜ただし現代人は含まないヨネ・笑〜

 

元来。。。

人間の屍は地球の最高の栄養だと思う。

が、地球破壊しながらの

“現代人来腐では、地球にとって人体は汚物だろうな…。

 

 

 

植物や微生物が…

ここに栄養足りないね?ってな

テレパシー・生物意識(妖精や精霊、妖怪だろうか)によって、

死にかけの人間が(偶然か必然か…)

ふらふらとその場所(土や水のある所)にやって来て死んで、

歳月とともに静かに、地球の栄養となっていく。

ってな、究極の必然を想像してみる…。

 

その昔、きっと

人間にとって行き倒れの死は、何だかあっけないけれども。

自然にとってはごちそうさま、なのだろう。

 

地球が生み出した自然界での人間は一部の存在。

偉くもなんともない。平等だ。特別な死など

無かろう、と。

 

 自然循環を思う。

 

 

法は彼らのために

 

国際金融家の二枚舌、いや三枚舌?…いや十枚舌?!の骨頂は、

合法的に社会を支配するというノウハウだ。

合法という言葉は、道徳観や良心・信仰心・向上心・意欲・社会貢献…あらゆる

善意の基準点を人間中心主義の側へ移動させる。

最終的に、彼ら国際金融家の私服を肥やす社会システムが作られてきた。

 

例えば、日銀の所有株を51%は日本政府で、

“推測デスガ…”49%は国際金融家(スイスに本拠お住まいの黒貴族ちゃんたち)。

それで株のルールで大株主が、日本の金融経営に、

口を挟む・指図する権利は“最大限という構図。

 

 

 元来、人間は自然の恩恵を無くしては生きられない。

今、使っているPCだって、植物が地層に油分として体積した恩恵で、

それを稼働している電気もそうだ。あらゆる物質は、

地球生命の営みに他ならない。

(*基本的に地下資源を利用することが地球環境破壊…。)

 

あらゆる細々とした日常の状況でよくよく考えれば、すべては自然の恩恵。

当たり前過ぎて忘れているが、原料素材の視点をもってすれば、

誰にでも解ることだ。が、しかし複雑化・巨大化・矛盾化することで、

人間がすべて解決できる・自然をコントロールできる、という

錯覚を持ってしまう。偽万能感を増幅させるのが、

「条約・憲法・法律・条例」だ。

 

読んでいないが、モンテスキュ〜〜ぅの「法の精神」なぁ〜んていう

書物が伝わってしまえば、有難がってそれを遂行しようとする、

本質に気付けない権威礼賛のインテリゲンチャ気取りの人間がたむろするのだ。

 

“有史(歴史教育上の)以来、“奴隷VS貴族という

二分化のユダキリ教支配の社会構造で、

17世紀〜18世紀初頭まで、欧州は自然への感性が荒んで、

一般の欧州人はまともな生活や良心・精神生活が

無かったのが実態と当方は認識している。

 

 

偉人伝、その啓蒙教育で本質的思想を制御することさえ、国際金融家らは

承知済みだという、奴らの10枚舌を見抜き、そんな頭は良いが、

腹の底・心が汚い、偽ユダ国際金融家の行動を見抜いて、

単純に99%の人にとって、心地よい地球を生み出すことを

せつに思う。

 

 

 

 

 

(漢字については古い時代の思想だけれども…。

熟語を作った

明治期に様々な国際金融家の意図があったであろう、西周や諭吉は石工組…)

〜〜〜〜つまり、理と利のすり替えが為されている。

「理」という字は、

「王に里」で支配の骨頂。

「利」は「木と心」で成り立っていて、(ノギへんは木を切る意)

この文字の作りや呪詛を

改めて考える必要性を思う。〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

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