ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

雑感ではなく、雑柑…の季節

 

 

一月半ばになると、そろそろみかんを名残惜しんで食べる頃だ。

あと二週間もすると、みかんの鮮度が落ちしなびて、

二月半ばから三月初旬、店頭から徐々に姿を消す。

変わって二月半ばから四月上旬までは、

雑柑の季節となる。

 

雑柑というと、甘夏、八朔、夏みかん、

伊予柑、ポンカン、デコポン、はるみ、タンドール、文旦…あれこれ思いつく。

色も濃い橙色や薄い黄色や黄緑色と様々で、見るのも楽しい。

 

柑橘類は菜種科と同じように近い種が交配しやすい性質もあって、

種類が豊富になっていく植物らしい。

だから、雑柑という言葉が派生したのだろうか。

 

ところで、雑柑を買う時の注意点を毎春、うっかり忘れ

エラい目に遇うのでここにメモしておこうっと。

 

最も注意すべきは、甘夏である。

早春の頃の甘夏は、爽やかな酸味と甘味のある八朔に比べ、

かなり酸っぱいし、剥きにくい。

「甘い夏みかん」の略したその名は罪なネーミングである。

レモンは酸っぱいことを前提に買うから構わない。だが、

「甘」は、明らかに酸っぱさを隠蔽したい農業者の意図を感じる。

文字につられ、つい買ってしまう自分がいけないと思いつつも、

“酸い夏”に変えて頂きたいものである。

そんなことしたら買う人が減ってしまうだろうが、

長年にわたり業者は、真実を隠してまで売り続けたいのかッ!!?

(って、わたしゃ陰謀論ボケ?大げさダョナ…苦笑。)

三月末から四月頃は甘くなるけどね。。。

 

 ついでに書くと、“伊予柑とポンカン”もその騙し討ちの方法が似ている…、

と思うのであるが、個人的な味覚なので

どうでもよく、長くなるので省略ス。

 

 せいぜい、値段が八朔より少し安いのはなぜ?で、

酸っぱいことを店頭で思い出せばいいだけのこと…か。

(お値段が甘めか^^)

 

 

数年前、家人は知人から十二月にもらった甘夏を即に食べ、

痛烈な酸っぱさ体験のお陰で味覚が崩壊した…という。

家人は甘夏にある意味で感謝している。

それまでは、柑橘類の酸味に抵抗があったらしいが、それを機に

一気に、酸っぱい食べ物への耐性ができてしまったそうな。(笑?)

 

 

それにしても、「甘」はマーケティング的事情だろうが、

「甘夏」「夏みかん」の、“夏”ってなんなの?

 

 

 

 

 

人間の屍は地球の最高の栄養?!〜ただし現代人は含まないヨネ・笑〜

 

元来。。。

人間の屍は地球の最高の栄養だと思う。

が、地球破壊しながらの

“現代人来腐では、地球にとって人体は汚物だろうな…。

 

 

 

植物や微生物が…

ここに栄養足りないね?ってな

テレパシー・生物意識(妖精や精霊、妖怪だろうか)によって、

死にかけの人間が(偶然か必然か…)

ふらふらとその場所(土や水のある所)にやって来て死んで、

歳月とともに静かに、地球の栄養となっていく。

ってな、究極の必然を想像してみる…。

 

その昔、きっと

人間にとって行き倒れの死は、何だかあっけないけれども。

自然にとってはごちそうさま、なのだろう。

 

地球が生み出した自然界での人間は一部の存在。

偉くもなんともない。平等だ。特別な死など

無かろう、と。

 

 自然循環を思う。

 

 

法は彼らのために

 

国際金融家の二枚舌、いや三枚舌?…いや十枚舌?!の骨頂は、

合法的に社会を支配するというノウハウだ。

合法という言葉は、道徳観や良心・信仰心・向上心・意欲・社会貢献…あらゆる

善意の基準点を人間中心主義の側へ移動させる。

最終的に、彼ら国際金融家の私服を肥やす社会システムが作られてきた。

 

例えば、日銀の所有株を51%は日本政府で、

“推測デスガ…”49%は国際金融家(スイスに本拠お住まいの黒貴族ちゃんたち)。

それで株のルールで大株主が、日本の金融経営に、

口を挟む・指図する権利は“最大限という構図。

 

 

 元来、人間は自然の恩恵を無くしては生きられない。

今、使っているPCだって、植物が地層に油分として体積した恩恵で、

それを稼働している電気もそうだ。あらゆる物質は、

地球生命の営みに他ならない。

(*基本的に地下資源を利用することが地球環境破壊…。)

 

あらゆる細々とした日常の状況でよくよく考えれば、すべては自然の恩恵。

当たり前過ぎて忘れているが、原料素材の視点をもってすれば、

誰にでも解ることだ。が、しかし複雑化・巨大化・矛盾化することで、

人間がすべて解決できる・自然をコントロールできる、という

錯覚を持ってしまう。偽万能感を増幅させるのが、

「条約・憲法・法律・条例」だ。

 

読んでいないが、モンテスキュ〜〜ぅの「法の精神」なぁ〜んていう

書物が伝わってしまえば、有難がってそれを遂行しようとする、

本質に気付けない権威礼賛のインテリゲンチャ気取りの人間がたむろするのだ。

 

“有史(歴史教育上の)以来、“奴隷VS貴族という

二分化のユダキリ教支配の社会構造で、

17世紀〜18世紀初頭まで、欧州は自然への感性が荒んで、

一般の欧州人はまともな生活や良心・精神生活が

無かったのが実態と当方は認識している。

 

 

偉人伝、その啓蒙教育で本質的思想を制御することさえ、国際金融家らは

承知済みだという、奴らの10枚舌を見抜き、そんな頭は良いが、

腹の底・心が汚い、偽ユダ国際金融家の行動を見抜いて、

単純に99%の人にとって、心地よい地球を生み出すことを

せつに思う。

 

 

 

 

 

(漢字については古い時代の思想だけれども…。

熟語を作った

明治期に様々な国際金融家の意図があったであろう、西周や諭吉は石工組…)

〜〜〜〜つまり、理と利のすり替えが為されている。

「理」という字は、

「王に里」で支配の骨頂。

「利」は「木と心」で成り立っていて、(ノギへんは木を切る意)

この文字の作りや呪詛を

改めて考える必要性を思う。〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

ミーハー過ぎるが。

 

 

毎度マスゴミの悪態をついているクセに、

もともとミーハーなのでついつい、YouTubeで再生される

バラエティ番組も(ついでに?!)視聴してしまう。

脱洗脳を唱える者として大変な矛盾だ。

この分裂症状が、どっぷりTV世代の私も汚染脳者である証し…。

とほほ。

仙人のように生きている訳ではないので、

その辺りは自分を大目に見るとしよう。

 

ところで、万国共通!?いや日本人に強く顕われる特徴のひとつは、

「隣は何をする人ぞ」の野次馬的な好奇心だ。

それを刺激するマスゴミ全般は、

日本人的な特徴を承知の上で意図して利用しているだろうことは、

知っておいた方がいいと観察している。

 

(なぜ、日本人にそうした特徴があるかについて考えたことが

あるが、話が逸れるのでそれは触れない。)

 

古くは中世のフロイス見聞録、前後に隠れ切支丹らの加勢もあって、

幕末に訪日した欧州人の見聞録、戦後直後のベネティクト著書菊と刀

などに象徴されるのは、如何に欧州支配層が日本人を恣意的に

観察し続けて来たかを窺える。

 

そこでもう一つ慎重に紐解くなら、日本人大衆が自覚してはマズい

日本人特徴の観察は、フロイスや欧州人見聞録、ベネィクト著書等々に

記さないだろう。公開される記録文書は日本人に好感を持った視点、

あるいは反省させたり(罠として)、自虐的・罪悪感・羞恥心などを与え、

彼らがリモートコントロールできるようになる情報、視点で

おそらく割(偽)愛された著書が流通することを

日本人が自覚し分析したい点だ、と思っている。

 

 単に、日本人を色々見てくれてアリガトウといった

オメデタイことではなかろう、と。

 

欧州国際金融家やマスゴミや大企業陣の腰巾着らは如何に、

ニッポンを属国にしてトコトン利用し、人的能力技術、自然も含め、

ありとあらゆる資源資産を吸い上げ尽くし、

最終的に後腐れの無い・使い捨て”で、

国や民族を解体・消滅したいのが、真の目的だろう。

約二千年(ホントは約五百年と当方推測)の

浅ましく卑しき悲願・偽ユダ帝国のために…。

 

強大な偽善者が善を装うことは、

大衆のようなお人好しの善人よりも長けているのだ。

 

 

何しろ、国際金融家らは二枚舌ではなく、三枚舌と喩えられて

いるのだから、その狡猾さは大衆の倫理観を完全に超越するもので

あることを察知していたいと思う。

 

地球はたった約200〜150年前から加速度的に一気に狂ってしまったのだ。

そのわずかな期間で彼らの専制帝国化のために、

あらゆる生物、偉大な惑星を破壊させるには

あまりにも哀しい。

 

*******************

 

で、そこまで言っておきながら未だに、国際金融家腰巾着の

詭弁家のプロ・マスゴミにいつまでも、罠に引っかかっている私。^^;

 

近頃、妙に関心を持ってしまうのは、

大多数派に属する自分の反応にも呆れるが、マツコデラックスさんだ。

人気支持率はTV・映像画面の露出度時間に比例するそうだから、

YouTubeもそれに準じるであろう、稼ぎ時の

マツコさんに人気があるのは、当然と言えば当然だが…。

 

 

中年女装男性が大きな影響力を持つのは、豊満な肉体の為せる技か?

彼の体格は経済効果・人口削減のために、

過食(=性欲減退)推進社会の汚染脳には持ってこいな訳で。

 

スリムなタレントやモデルをCM等で見て憧れさせて、

豊満な肉体の中年女装男性がTV番組で

ガンガン稼いでいることに羨望を持たせれば、

大衆は、食べて太っても大丈夫。

いつかきっと痩せてキレイになったら幸せになれるハズ…と。

 

よく考えればバカらしいが大衆の精神が

TVに囲まれた生活による分裂状態のお陰で、

社会全体の振り子現象を延々と続けてくれる。

 

 

食べて太って減量して痩せ、また食べて太って。

金銭労働で稼いで消費享楽で散財し、散財してはまた労働し。

 

男らしくなくてもいい。もてなくても子孫を残せなくたって、

生きていける場所がきっと自分にもあると信じる男たち。

女らしいオトコに勝てない、奥ゆかしさ健気さを失った男勝りの

金銭労働でくたびれた女の哀しい諦めを慰めてくれる…女友達的オトコ。

心の痛みを解ってくれそうな、負の人生経験、私情を暴露しながら、

羞恥心や虚栄心を開示して、

大衆の行き場を失った罪悪感を緩和してくれるマツコ。 

 

更には古き良き日本人の良心や美意識、会話中思案する間や呼吸を

微妙に絶妙に自然と身に付けている彼は、老人の目にも優しく映る。

子供の居ない者は子供への遠くからの温かい眼差しがある。

 

老若男女、包容感を醸すキャラクターと肉体と人生経験。

カリスマ性のポイントはトータルな中性、中庸なのかもしれない…。

ワレながら皮肉な分析だなぁ。

 

そんな時代の象徴的騎手として彼は今、走っている。

心臓バクバクしそうな肉体で。良くも悪くも自然体の彼。。。

 

 

マツコデラックスさんに私もなぜか興味が湧いてしまう。

なぜ今、気に入ってしまうタレントなのか。

 

色々な分析が巷でも話題になっているようだ。

裏街道の人生を知っているからこそ、他人の痛みを

敏感に察して、それを上手いこと昇華させる言葉のセンスが

人気の秘密か。

戦前に育った母親を持つマツコさんの昔の日本人の良さが、

マツコさんに受け継がれている、と分析した記事を目にした。

 

彼は、日本人特有の良心から来る苦悩を慰めつつも、

そして国際金融家の最終目的、

日本人削減への汚染脳(矛盾の振り子現象)の加勢を

天然で無意識にしながら、稼ぎ続ける。

 

皮肉に観察するも、それでも番組の中で彼の何気ない言葉に、

先日私はハッとさせられた。

“「ワタシは朝、目が覚めた時、あぁ〜生きていて良かった。有難いって、

思うのよ〜”と。

 

夜寝る時、一日に感謝をするのは誰でも感じることはあるし言えそうだが、

朝、目が覚めた時に「有難い」と思えるのは、

病を乗り越えつつある、病み上がりの人くらいではないだろうか。

彼もまた、生かされていることを体得した人だ、と思った。

そうした心の在り方、その悟りを見習いたいな、と素直に思えた。

 

まぁ…彼の体格だと命がけで健康を守りながら、不摂生しているという、

分裂症状の現代日本人が、悟った言葉であることは

前提だけれども…。(苦笑)

 

それでも、「朝、目が覚めて有難う」は

素晴らしい。

 

マツコさんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カビとかぼちゃ

 

 

夏が終わる頃。
ここ数年はカボチャを保存する時期と決めている。

昔の人が冬至にカボチャを食べたのは、
冬に植物を摂取する機会が減るから、
栄養については経験的であったにしても、
それを補う知恵として今も尚、習慣は引き継がれているのだろう。

最近の晩秋はハロウィンでカボチャやその他の食物を

観賞用やお化けを模した商品等が
店頭を席巻したりやたらと話題にするが、
食物等をお化けに見立てたイメージ戦略に違和感を憶える。

八百万神はきっと泣いている。
自然の恵み、秋の収穫への感謝はどこかへ吹っ飛んでしまう。
餓鬼祭?未成仏霊祭?!と言えばいいか。


それも八百万神に仲間入りなのかぃな?!
悲惨な家畜で食肉にされた膨大な動物の悲しみの意識が、人間の身体に残存し
明治以来、日本人の意識は品性を失い続けている。
だから、ゲロウィンが波及してしまうのか?!
肉食偽食飽食時代の終末…。


洗脳から脱すれば、欧州黒貴族の悪徳洗脳教の慣習など一蹴する
知恵や知識を得られるのに…。
長年、教育によって分断され続けた集合意識が
負のループの出口を見つけさせない。

消費社会は経済効果が是だから、ひたすらに企業での労働が地球破壊を続ける。
本質に疑問が持てない持たせない、発言できない社会の病理を思う。

 


それはさておき。
晩夏から初秋にかけ来春まで、カボチャコレクションと称し、
台所にいくつか並べるが、調理に必要になると一個づつ使う。

だが時々、カビが発生するカボチャがある。
考えると多分、化学肥料を施肥したカボチャから、
どうも腐り始めカビが発生しやすいように見受けられる。

つい先日も、そのカボチャコレクション(自然栽培・慣行栽培など雑多)の中から、
一個のカボチャに1cm位の大きさの白っぽいカビが生え出したことに気付いた。
しかも、中から蜜のように汁が表皮から垂れ出している。
面白いな〜と思いつつも、そろそろ食べないともったいない、
という訳でそのカボチャを調理する事にした。
調理にあたって、カビの部分のみならずその周囲も
一気に切り落とした。


翌朝ふとそのことを思い出したのが、
そういえば癌の手術とちょっと似ていると思った。
医療について素人だが、家族として癌治療で知った事は、
癌の部位を手術で行なうとき病巣だけではなく、かなり広範囲に切ってしまう。
癌が広がらないよう念のため、というかなり大胆で乱暴な理由である。


腐敗したカボチャの箇所をできるだけ大きく切ろうとしたのは、
カビの危険性を察知した経験的な行為だろうか。
あるいは私の潔癖性がそうさせるのかは分からない。

カボチャにカビが生えたのは、つまり「腐敗」だ。
細胞が電位差を失い生命活動が終了し酵素も活動できなくなる。
よって細胞は腐ってカビが寄生する。
見方を変えれば、腐敗したものもまた養分として
新しい生命活動の糧にするという循環が始まっている。

人為的に施肥された化学肥料は化学物質ゆえ、
電子レベルで生物とはイオン状態が逆で、生命活動を弱めるように想像する。
植物細胞の内外で栄養の出入り、酵素の活動が減ってしまうのではないだろうか。
自然の摂理で存在する栄養の分子は細胞同士の組織でイオン交換を盛んに行える。
その命の活動が続いているから、根や茎を失っても
生命活動が微弱にしろ継続され、保存も可能なのだろう。

空気や水分や様々な栄養が細胞レベルで交換できる状態がわずかながらも、
土から切り離されても継続できる。
が、しかし人工的に作られた物質はそれができない。命がない物質。
だから、化学肥料施肥された植物細胞はその活動が少ない。

更に、偽栄養の過剰もあると思われる。

 

 

様々な知識を私なりに得て、できるだけ無農薬無施肥、化学肥料を使わない
野菜を食べるようになった。家族が癌になる前は、
野菜の善し悪しは見た目位しか関心が無く

一般に売られている野菜を食べていた。
時々、調理し損ねた野菜が冷蔵庫内で残ると、

ドロドロと葉先が腐るのを目にした。

そうしたドロドロになる野菜ではなく、病がきっかけとなって、
自然農で育てられた野菜の魅力に気付き、できるだけ
自然に育った野菜を日常に取り入れることになった。
希望は自分でそうした植物を育てたい。が、
今のところほとんどできないので、有難く自然農野菜を
育てている方々から買わせて頂いている。


自然農で育てた野菜は変な腐り方をしないお陰で、
無駄なく食べる事ができる良さがある。
たまに枯らしてしまうこともあるが、さほど調理で違和感がない。
本能で生理的な信頼感があるからだろうか。
化学肥料の物質が植物の細胞にないから
ドロドロになった部位にお目にかからない。


人体も人工の化学物質を体内に入れると、似たような理由で
徐々に細胞活動ができなくなり、腐り始めると想像できる。
ちなみに、DNAは植物と人間は60%同じだとか。

癌と言う病には数多の原因を模索する議論が流布され続けている。
いつまで経っても決め手となる原因を一般大衆の私たちに知らされる事は無い。

その議論に立ち入る知識も持ち得ないが、人工の化学物質を
多く取り込んでしまった細胞が徐々に生命活動を喪失させ、
まだ活動できる細胞たちが炎症等で免疫が応援するも虚しく、
臓器や組織細胞が有機“物質”となり腐敗し、
やがてウィルス、カビが寄生し…癌”というように、
素人なりに考えるようになった。


約10年前だが、家族の検査の段階で医師に「癌細胞の種類は何ですか?」という
質問をしたら、ガン細胞に種類の分類はない、と言われた。
高分化、低分化など形状の分類や進行速度の観察はできても、
ガン細胞そのものに分類定義はないことを知った。
細胞の病理検査をどのようにするのかも分からない。が、
思えば、台所で腐る野菜の部位とある意味で同じのような気がした。

 

 

 

 

無常というか、三次元の物質世界はすべからく変化していく。
それは生命の宿命でもあり、ウィルスやカビや細菌もまた無常である。
自然な生活で人体が存在すれば老衰で、カボチャは朽ちるのだろうが、
人工生活の中にあっては「腐る」ことも摂理の中の無常。

 

現代社会が科学の進歩を声高に叫ぶわりには、
「腐る」なんてことは、今もって漠然とした日常現象だから、
分断され権威主義的な科学目線では未来永劫、
素朴な現象は盲点のままなのだろう。

 

「恐怖」が巨大産業の原動力である。
「得体の知れない病のイメージ」が医療の広報(喧伝)活動な訳で、
現代医療の進歩に必要だったのは、
恐怖を煽り続ける「ガン」というキャッチコピーだ。

 

内臓や組織が腐ることの原因が単に、多国籍企業が演出する
家畜肉食偽食過食飽食の社会、
金銭を使い続けさせる不自然な便利&保障&偽安全生活、
人口削減用の自然環境破壊…によるところの、

精神と肉体の疲弊であることを
一般市民に気付かれては困るのだろう。


「先端の現代医療がいつの日か、大発見をして

ガンを治してくれる魔法の薬や治療法を作ってくれることを
みんなが夢みて願い続ける…の図」___が、
長期的に儲かる上手い商売だ。

(医療産業も彼らのものなわけで自作自演の極み。)

 


自然の摂理にある「無常」について
現代人は宗教的言説のジャンルとして、
漠然と片付け見過ごしているから
私たちは「腐敗と枯死」のごく当たり前の違いに

気付かないのではないだろうか。

 


人間は、物質を意思で動かす事ができる。
意識が物質世界に影響を与えることも

意識あるいは無意識であれ変化する術を知っている。


カボチャのように、茎が切られた時点から
生命力を物理的に変化させることができないそれと違う。


決して物質から意識そのものを与えられる事はないだろう。
つまり、物理的に存在する肉体は、
意識が腐らない生活ならば、

細胞も腐りにくいのではないだろうか。

 

自己否定感、排他的自己愛、自己憐憫、自閉的、被害者意識…
その精神状態(腐る心)を生み出す人工環境社会が癌を増やし続ける。

 

 


地球住人として自然への感謝や尊ぶことでの己への肯定感。
“腐敗させない他生物に寄生されない全うな細胞”を育てる。

人間を含めた生物社会での調和意識。
内なる宇宙(内臓)で免疫力を生み出す他生物同士の調(腸)和”。

三次元物理世界を冒険する意欲。
“肉体と精神を存分に他者に役立てる循環”

 

そうした「精神と肉体が開放と調和の連動した活動、その循環」によって、
予防や治癒を思ったりするこの頃。

 

哲学チックな私なりの思索をくれた
西洋由来の現代医療やそのプロパガンダにも感謝か…。
それにしても、理屈はいくらでも書けるわな。(苦笑)
言うは易し。

 

 

 

ともかく、現代日本人は単なる食べ過ぎだ。

命を奪ってまで命を繋ぐはずの食べるという行為が

我執の享楽、遊戯と化した現代日本

私たちは餓鬼&阿呆じゃないのか。

 

国際金融家資金提供の大戦争

(日清日露大東亜〜第二次大戦に起因する食糧難トラウマ)で、

いつまで餓鬼ゴッコすれば気が済むのか???!

 

あらゆる不自然文明”の道具を使って生活する現代日本人は動かないから、

癌ちゃんとウィルスちゃん菌ちゃんやカビちゃんからのメッセージは…、

 

「肉体をさして使わず地球に役立ってもいないのに、

そんなに食べるなよぉ〜。オイラたち増えちゃうぞぉ〜。

その方が金銭礼賛社会のアンタらにも役立つだろう!?」ってな、

ことなんじゃない?

 


そうかぁ。
ゲロウィンはガンちゃんウィルスちゃんやバイキンちゃんやカビちゃんへの
感謝祭なのか!!!


ヤマイダレに口三つに山。

それが“癌”のもと。

 

 

 

 

女性の意識が常識を作ってしまうからこそ…

  

女性がこの世界に本質的な的を得た疑問を持ち、
真実を知るならば、この世界は大きく変わると思ったりする。


それを最も恐れているのが、支配層かもしれない。


何故なら、日常・当たり前・常識、そして感情に影響を与えるのは、
ほぼ女性で、そして生み出すという創造・想像の源だから…。


「日常」「当たり前」「常識」それを疑問視し、
深く思索し始めると、彼らは存在できなくなるのだろう。


日常の不自然さ、教育で刷込まれた当たり前、
マスゴミで流布する今どきの常識…。

 

実は、己にある封印している暗闇の感情と繋がっている。
洗脳された「常識やモラルなどの社会認識」で
感情を抑圧するうちに、正体が見えなくなっている。

外的世界と内的世界はすべて呼応している。
いわゆる相対関係がある。


自身の負の感情を見つめる勇気と、
他者の負の事象を見てしまう意識は、
実は、同種であり反発のエネルギーなのかもしれない。

よって、自身の様々な負の感情を気づき整理し見極めると

他者から受ける負の事象は消滅すると思われる。

 

“支配”を消滅させるヒントのような気もする。

 

現代に至っては支配層がうごめく世界。

洗脳されていることに気付かない洗脳。

洗脳されていることに気付けない汚染脳。

そんな繰り返しの少なくとも2000年間。

 

汚染脳され切った

元ユダ&偽欧州ユダ&腰巾着支配層

国際金融家の汚辱世界=人口削減と彼ら都合の地球破壊”から

脱出するには、意識変化が迫られているのだろう。

 

 

 

 

根を思う

 

過程・道程・プロセス…。

その時間に、如何に豊かな喜怒哀楽があるかを思う。

人生は過程・道程・プロセスそのものがご褒美、なのだと。

 


植物は、種が土に落ち蒔かれ、やがて芽が出て葉茎が育ち花を開く。

その間、絶え間なく根は地へと命の素をと広げていく。

地中の活動が地表の世界のそれを支えている。

 

無意識と意識の世界。人間の想念の活動と重なる。


見える世界ではない、見えない、見せない、
その奥行きがやがて表の世界で真実を顕わしていく。

 

見えないことのプロセスなくしては、
この見える世界は存在しないことを
想う。

 

 

 

 

そして、根から花まで…

ミクロの細胞の集合体が宇宙の摂理に則って

生命活動が刻々と営まれている。

可視できないけれども

存在している。

 

生物は人間も含め、ミクロ宇宙の集合体で

可視化は間接的にしかできない。

意識ではそれを感じられる。

その落差を常に思う。 

 

 

 

 

 

 

日々は、素朴な疑問のテンコ盛り

 

自然という言葉を繰り言のように当方は使うけれども。

自然という言葉がいつから発生し、使われるようになったのか?を

知らない。

仏教用語だとは思うが、それ以上は分からない。

 

自然という言葉は「じ」をシと読み、

然という「しかり」という訳語がある。

“自らのまま”・“あるがままに”と言い換えられるか。

 

 

 

 

 

現代日本語の成り立ちについて注視することは、

主に明治期、英語を翻訳するために熟語を造語したことだ。

その造語した由来を私たちはまず学ぶ事が無い。いや、学べない。

 

言語の成立とその波及は、謎めいている。

時代のプロパガンダでもあっただろうなぁ。

 

 

 

目安として

訓読みは、音と字の形と意味を網羅して、

漢字は後から当てはめられただろう。

紀元前から徐々に約8世紀の仏教伝来で中国語圏。

 現代で使用頻度の高い音読みの熟語の多くは

英独仏語の訳語として外来語で、明治以降1860年代以降の英語圏。

 

といった視点も時に重要ではないかな、と思ったりする。 

 

 

言語の概念が思考に大きく関与し、

言語の思想が人間の社会を形作る、その根源を思うと、

言語を曖昧に活用する事に時々、危うさを憶えることがある。

逆に、違和感なく使える熟語に関心したり。

 

 

日本語のおおもとはヤマト語であると思うが、

大陸半島(中国・朝鮮)の影響も、多大だと思う

幾度にもわたって、その影響を受け

うまく懐柔あるいは凌駕されてきたのだろうか。

歴史の流れと言語の関係はどうなのかな、と思うこともあるが、

素人がそこまで分析するのは難しい。

 

 

***************************

 

 

で。

まったく、関係ない事だが、

塩は何からできているのか?を

疑問に思う事は無いだろうか。

無意識だけれどもわずかな疑問が時折、

意識に上ってくることもあるだろう。

 

当方は長らく疑問だった。10年程前に

赤峰勝人氏という自然農を追求されている方の

「にんじんから宇宙へ」という書籍を読んだ時、

“塩”が何から組成されているか記されていて、

腑に落ちた覚えがある。

 

(地球の数億年前の植物の“化”石化だとか。

うろ覚えだが…。今一度、詳細を知りたいことのひとつ…。)

 

 

 

現代人は、あまりにも無意識層に無知・無頓着なのかもしれない。

 

 「日常の意識と無意識」というテーマが当方のひとつの関心事だ。

物理的な事、精神的な事、分けるに分けられない狭間には、

疑問だらけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後…

 

一昨日の夜、ふと天井に近い壁の所に白っぽい虫が

とまっているのに気付く。

よく見たらモンシロチョウだ。

 

先日飛び立った蝶かもしれない。

その数日前、飛び立った翌々日だったか、洗濯物を干していたら、

家の周りをフワフワと飛んでいたのを見かけたのも、

たぶん、その子だった気がする。季節外れだから余計にそう思う。

 

行動派の彼?彼女?は、案外と近隣を飛行していたようだ。

 

 

ここ三日は雨が続き、大丈夫かな?と、時々思い出していた。

里帰りして雨宿りすることにしたみたいで、何だかうれしい。

蝶にも帰巣本能があるのかしらん?と。

 

あいにく、家の中には花を飾っていないし、

心地よく羽を休めそうな環境が無い。

おまけに、猫たちがいるからとても危険だ。

幸いにも、高い所にじっとしているから襲われないだろうけど。

それさえも、解っているかも知れない。

夕方から昨日の昼頃まで同じ場所でじっとしていた。

 

ちょっと雨が止んだな、と私が窓に近寄ったら、

またも偶然に、カーテンを動かしている時、

蝶は窓際で出たそうにバタバタしていた。

そして窓を開けると、

もう一度うちから飛び出していった。

 

 

また、雨が続いたらうちに戻っておいで…と

思いながら、見送った。

 

昨夜の強い雨。蝶はどこに身を寄せていただろうか。

無事でいてくれるといいなぁ。

 

 

 

どんな生物も意識の奥の方で

繋がっているんだな…と感じる。

 

人間都合の環境の下で、生きる生物の健気な様子に、

人工その虚無を見る。

自然界で人間だけが狂っている。

 

人工物に囲まれた環境下でも、

人間以外の生物の姿には、いつも詩があることを想う。

 

 

 

 

変態はたのしい

 

 

先日、いつもの朝市へ出かけ露地物としては季節外れの

無農薬のブロッコリーを見つけて買った。


冷蔵庫で数日間保存し庫内で少しづつちぎって料理にしていたが、
改めてそれを出してみたら、あちこちアオ虫たちに食べられていた。
花芽のところはかなり崩れており、
茎の間には糞がたくさん落ちている。 

アオ虫は平気だが、それでもちょっとびっくりした。

 

ひとまず食べることは諦め、
アオ虫のお住まいだったのね〜、てなわけで、
「アオ虫マンション」に見立て水を入れたプラスチック容器に、
ブロッコリーを引き続き、栽培のつもりで
台所の隅っこに置いてみた。

 

どちらかと言えば虫の観察が好きな私は、
気になる度に、約4匹いるアオ虫たちの様子を見ていた。
3日位過ぎた頃、ブロッコリーがしなびて
臭くなって来たので、(当たり前だ)
そろそろ、片付けなきゃな〜と思いつつ、
様子を見たら、アオ虫の頭の辺りが形を変え始めている。
おお〜、食欲旺盛だったから成長が早いのだろうか?

 

その臭さを我慢して、もうしばらくそっとしておいたら、
次に見た時は、1匹が臭くなったブロッコリーから離れ、
お気に入り?の場所へ移動していた。1匹がプラスチック容器の側面に
繭を出してしっかり吸着し、じっとしていたのだ。意外な早さだ。

 

更に数時間後。いつも使っているショッピングバックを手にしたら、
内側上部にもアオ虫がいることに気付いた。
繭のようなものを出し始め、変態が始まっているではないか。
あとの2匹はブロッコリーの茎の所で少し色が黒ずんで、
繭はほとんど出ておらず形だけは蛹になっている。

 

 

もう初秋。蛹に変わった彼らは、いつ成虫になるのだろうか?
観察好きのくせにアオ虫のことを知らない私は、家人に聞いた。
すると、「冬越しするかもね」との回答。

 

ところで、それぞれが各所で蛹になっていたのだが、
1匹はプラスチック容器の外側面に。

もう1匹は、ショッピングバッグの内側。

共通しているのは、石油製品だ。
アオ虫がどんな判断をしてその場所を選んだのか興味深い。
安全確保のために、一定の間は変化の少ない物質を

探す能力が具わっているのだろうか…、と考えてみたり。

 

ブロッコリーの茎にいる2匹は繭が無く

どうも乾涸びているように見える。
もう無理かと思いつつも、2匹は別のプラスチック容器の中に、
直接手で触ると酵素に影響があるか、と思って

念のため、割り箸でつまんで仲良く並べてみた。
(ミミズ体表を手で触ると酵素を壊し死んでしまうと

聞いた事があったので)

 


それにしても、どうやって移動したのか想像が難しいのは、
アオ虫マンションの位置から1m位空間の離れた
ショッピングバッグの内側上部に引っ越した、アオ虫ちゃんだ。

その彼?彼女?は行動派だ。

冬越しをするなら、いつも持ち歩いているショッピングバッグは

しばらく休みにしておこう。
知らぬ間に、行動派の彼?彼女?を
振り落としたり潰してしまっては気の毒だ。
蛹で絶命させるのは忍びない。

この冬はバッグを使わずと決め、棚の端にしずかに移動させた。

 

春を楽しみにして、蛹ちゃんたちのことは私なりに
冬越しの準備をした(つもり)だから、もう忘れていた。

 

 

昨日の午後3時頃。

台所の奥にある窓にヒラヒラ動く影がある。
大きめの蛾が窓の外にでもいるのかな?と、よく見たら、室内側で、
それはモンシロチョウだった。
明るい方へ懸命に向かおうとしている。
急いで窓を開けると、それに気付いて窓から外へふわぁぁ〜〜と出て行った。
度々、家の中に色々な虫が入ってくるからなぁ、と思いきや
どうやら蛹ちゃんの1匹のようだった。

 

ところで、どの蛹ちゃんが羽化して旅立っていったのだろうか、と。
プラスチック容器を見たら、三匹は静かにしている。
もしかして、バッグか?と確認したら、

行動派の、彼?彼女?だった。
蛹は頭部の殻が破れ、中身は空っぽになっていた。

 

ほんの短い間の出来事だったが、楽しませてもらった。
ブロッコリーは食べ切れなかったけれども、何となく満足。

 

窓から舞い出ていったモンシロチョウが、
次の命に繋がることを祈りつつ…アリガトウ。